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ねえちゃん姫 朝食の席に父王がいません。 それは、この離宮に来て以来、初めての事でした。 まさか、体調でも悪いのでしょうか? 不安に思って、お目付け役の志穂の耳元で問い掛けると、志穂は少し目を丸くして小首を傾げました。 「王女は既に知っておられると思いましたが……王は、今朝早く、城へと向かわれました」 「え?」 寝耳に水です。 予定していた滞在より大分早いのに、父王は茜を残して帰ってしまったというのでしょうか? 「ああ、いえ、帰られたのではなく……公務の為に一旦戻られただけで、数日後に引き返してくる予定だそうです」 何か、少し志穂の言葉に含まれているような気がして、茜は首を傾げました。 茜が続きを問い掛けるより前に、朝食が運び込まれてきて、志穂は下がってしまいました。 公務の為の帰城。 本当に、そうでしょうか? 一体、どんな公務に向かっているというのでしょうか? 珪王子が自国に帰ったのは一昨日でした。離宮に滞在するようになってから、珪王子は、時折ほんの数日ですが、公務の為に国に帰ってしまうことがありました。この離宮から隣国の王城まで馬で半日もかからないのだそうです。 これまでの帰国から考えると、今日遅くか明日にでも帰ってきそうですが……少なくとも、今日一日、茜はこの離宮でひとりで過ごさねばならないようです。 いえ、王に追従して帰らなかった何人かの貴族たちもいますけれど……心を開いて付き合う相手では……なさそうですから。 進まない朝食を済ませ、貴族達からお誘いのあった舟遊びを丁寧に断って、茜は日当たりのいいサロンに引き篭りました。 志穂に父王帰城の詳細な内容を聞きたかったのですが……志穂はどこかに出かけてしまっていて、捕まりませんでした。 昨夜、ほとんど眠れなかったせいで、長閑な陽射しと風を感じていると意識はうとうとし始めます。けれど、眠れません。 思考が明瞭でない為か、どうしようもない不安だけが水中深くに繁茂する藻のように胸中にざわざわと広がって、茜の心を絡め取ろうとします。 父王が決めた茜の相手……珪王子。 彼に不満があろうはずがありません。彼ほどの王子様はそうはいないでしょうから。 茜が普通に城に育っていれば、きっと、彼との婚約を快諾できたでしょう。 けれど、茜の心には別の存在がいて……それは、普通であれば結ばれるはずのない存在、弟の尽で。 そうして、その尽にも既に決まった相手が……。 胸の中の黒いざわざわが激しく顫動して、逃げるように茜は身をよじりました。 もしかして。 茜は、心が不安の触手に絡め取られるのを感じました。 父王は、今日、尽の婚約を発表しに……? ドクン、と、鼓動が痛いくらいに脈打ちました。 不安が、心の中を蝕み始めています。 尽が、それに素直に従うとは思えませんでしたが……けれど、出立前の尽が言っていた"可能性が否定される事"になってしまったのだとしたら? なくなった可能性にすがる事はできず、そうであるならば尽は一国の王子の責として将来の妃を選ばなければならい。……茜を諦めて。 離宮の茜に手紙を一度も寄越さなかったのは、茜を諦める為。茜を、想い出さない為……。 心が黒い不安に染まっていくのが分かりました。 心が完全に黒く染まりあがった時、それは不安ではなく……絶望になると、感じました。 もう、どうしようもないのでしょうか。 茜ひとりがあがいたって……どうしようもない事になっているのでしょうか。 「こんなに、尽が、好き……なのに……」 どうして、ふたりは姉弟なのでしょう。 どうして、ふたりは出会ってしまったのでしょう。 運命というものがあるのなら。その巡り合わせを恨まずにはいられません。 「尽、尽、尽………会いたい……会いたいよ……」 サロンに入り込む影が短くなってきました。そろそろ、太陽が空の真上に届く時間です。 意識を夢現の不安に彷徨わせていた茜は、重い瞼をゆっくり開けて、外を見ました。 心地よい快晴。穏やかな自然が広がる庭園は普段と変わりなく、茜の心を蝕む不安をより黒々と実感させるだけです。 父王と珪王子が帰ってきたら、きっと、茜との婚約の話が進められるでしょう。 茜は、それを……断れません。 珪王子との婚約、それも、また、王女である茜の責なのですから。 いえ、責だという理由だけでなく、尽という存在が茜の心の中から消えれば、きっとそこに残るのは珪王子だと思うから。尽をこんなに好きにならなければ、きっと、珪王子との婚約は茜にとっては願ってもないことのはずで。 普通なら、顔も知らない相手と婚約・結婚となる事の多い王族の婚姻。父王は、それを理解した上で、茜に珪王子を引き合わせてくれたのでしょう。それが、父王の茜への気遣いと優しさなのでしょう。 茜には、それが分かってしまいます。 だから……父王に反発できません。 「珪王子は、好き……でも……」 尽を諦めなければならない。 諦めたくない。諦めたくないけれど……。 「私のあるべき場所。……もう、そんなの……」 ……見つけられなくていい。 茜は、それは尽の傍だけだと、心に決めました。 例え、ふたり、互いに離れてしまっても……心はずっと尽の傍に。あるべき場所は、茜にとって、尽の傍だけ。 珪王子の傍にいても、きっと、心は尽の傍にありつづける。 太陽はもう南中しているのでしょうか。影が随分形を変えています。 昼食の時間ですので、そろそろメイドが伺いに来るでしょう。もっとも、食事なんて取る気は更々なく、このままこのサロンで、お茶くらいは頂こうかと考えていますと……。 軽いノックに、入室を許すと。 「姫様、昼食はどうなさいますか?」 案の定、メイドが恭しく頭を下げて問い掛けます。 茜は、溜息をついて、それを断ろうとしますが、続くメイドの言葉に、よりかかった長椅子から身を起こしました。 「姫様のお客様方がお先に席についてお待ちですので、よろしければテラスの方までお越しくださると……」 「お客様方?」 茜を尋ねてここまでくる客。 珪王子相手にメイドはこんな言い方をしません。 まさか、尽のはずもありません。 と、すると、茜に心当たりがあるのは。 慌てて立ち上がって「すぐに行きます」と、言うが早いか、茜は礼儀も忘れ、小走りに廊下を急ぎました。 もしかして。 茜の顔が期待に輝きます。 今、自分が一番会いたい相手ではないのは分かります。 でも、一番でなくても会いたい相手に違いありません。 常に日当たりの良いダイニングホールから続くテラスに設けられた席に……彼女達はいました。 「茜! 来てやったよ!」 「茜ちゃん!」 「なっちん! タマちゃん!」 立ち上がって茜を迎える二人に、茜は嬉しさのあまり、抱きつきました。 心が、温かくなりました。 さっきまでの黒々とした不安が消えたわけではなかったのですが、それでも、不安は和らいだ気がしました。 「あのね、王様からね、しばらく茜ちゃんの相手をしてやってくれないか、って手紙が来てて、それで……」 「王様が寄越してくれた馬車に半日! あーもう、お尻が痛いったら!」 「すごいよね! 綺麗な離宮だよね! びっくりしちゃった!!」 「こんな所に宿泊費・滞在費・馬車代、全てタダで滞在できるなんて、絶対に一生ないわ! 茜のおかげ?」 口々に感想を言う、相変わらずのふたりに、茜は笑います。 これも、また、父王の心遣いでしょう。 茜をいつも気遣ってくれる、優しい父王。 全てが、茜のために。茜を想って……。 友人たちの来訪はこの上なく嬉しい事ですが……父王は、最も茜が望む事を……決して叶えてはくれないでしょう。 ふたりに、言いたい事は沢山あります。 でも……どれから話していいか分かりません。 ふたりのために昼食を用意してもらい、茜も食が進まないながらも、少しだけ口をつけ、どうやってふたりに話そうかと考えます。 「あ、でね、瑞希も誘われてたんだけど、あいつなんか用があるって、遅れて来るみたいだよ。自家用の立派な馬車があるからねー。羨ましぃ事で」 滅多に食せないような豪華な食事を、もりもり食べながら奈津美は言います。 そんな奈津美を眉を寄せて横目で睨む珠美も、いつもの倍は食べているようにも見えます。 相変わらずのふたりに、茜は心の中が暖かくなりました。 大好きな友人達。 城に入って以来、茜に対等に話をしてくれる友人はなく……唯一、お城の中で茜が楽しく会話を出来た相手は尽くらいで……尽……。 目の前にいるのは、友人達。心許せる存在。 甘えてもいい相手……だから……茜は……。 「……っ? ぇえ!? 茜??」 「茜ちゃん? どうしたの……!?」 知らず、涙が零れていました。 「や、だ……」 一旦、どうにか堪えようとしたけれど……堪えるほどに、涙は溢れてきて、せき止められた分、ますますひどくなってきて。 茜は、俯いて、しゃくりあげていました。 「茜……」 事情など知らないはずの友人達でしたが……泣きじゃくる茜へ詰問をすることなく、そっと茜の肩に手を添えて、手を握り締めて、茜が落ち着くのを待っていてくれました。 そうして、しばらくして、茜の涙が出尽くした頃……顔を上げた茜は、静かに自分を待っている友人達の心配そうな優しい顔を見ました。 「……私……」 まだ、嗚咽が漏れて、途切れがちなる呼吸を整えながら、茜は涙を拭いました。 何を話すべきなのか、何から話せばいいのか、分からないけれど……ふたりに、心の迷いを聞いて欲しくて。一人では糸口の見付からないそれを、解きほぐす手伝いをして欲しくて。 ダイニングルームには食後のお茶を楽しむ貴族達がいて、時折、興味あり気にテラスの3人をちらちら見ています。 奈津美と珠美は茜を立たせて、テラスから庭へと導き出しました。 「湖がさ、見えるところ行きたいな」 人の目に触れない場所へ向かおうという奈津美の配慮の言葉なのでしょう。茜は、微笑んで、湖の見える庭園の向こうに足を進めました。 そうして、3人でゆっくりと歩きながら……茜は、心のうちを、語りました。 お城での生活。その中でいかほどに尽が茜にとっての救いだったか。尽に向けられた想い、尽への想い……ふたりの約束。隣国の珪王子との思い出と、幼い頃の約束と、昨日の父王の言葉と……。 感情に先走って、最後にはまた泣いてしまって……順序だてて話せたとは思えませんでしたが、ふたりは、驚いた顔をしながらも、最後までほとんど黙って聞いてくれていて、話し終えたときに、それぞれに溜息をつきました。 午後に入った陽射しが湖の水面に反射して、キラキラと宝石のような輝きを、周囲に放っています。 優しい風が吹く、湖を見渡せるその場所に3人は腰掛けました。 「……私、こんなドレスなんて着られなくたって、よかった。豪華な生活なんて、したくなかった。ただ、私がいてもいい場所が、欲しかった……。それは、きっと、お父様や尽、肉親の傍だと思ってた。でも……今は、尽の傍にいたい。尽の傍に、私の場所が、あるの……。弟、なのに……血肉を別けた弟だけど……でも、私、は……」 押し黙って俯く茜に、奈津美が静かに言う。 「弟……か。アタシは、弟はいないから、弟への感情がどんなものか分からないけどさ……誰かをどうしようもなく好きになっちゃう気持ちは、分かる」 「私は、玉緒がいるから……茜ちゃんの気持は、正直なところ、ちょっと、怖い、かな。弟をそんな対象に見られないから……。でも……茜ちゃんと尽くんは、ただの姉弟じゃないと思うから……」 珠美は遠慮がちに言いました。 「尽くんが、どれだけ茜ちゃんの事を想っていたか……」 珠美は言葉をとぎって、横にいる奈津美を見ます。 奈津美は、珠美と眼差しを合わせて苦笑しました。 「うん。あんたがお城にいっちゃった後、あいつ、何度かうちまで来たんだ。あんたの事を報告しに来てくれたり……あんたへのお土産を持ってったり。あ、りんご、受け取ってくれた?」 茜は微笑んで頷きます。 「お城の方に置いてあるけど……大事にしてる。あのりんごを見て、皆の事、思い出してる」 奈津美は満足そうに笑って、言葉を続けました。 「あいつは、あんたの事、すごく好きなんだと、思う。いつか、舞踏会に招待してくれた時もさ、きっと、あんたを自分が将来を誓いたい相手だって、周囲に知らしめる為だったのよね。王子の嫁探しの意味のある舞踏会だもん。まぁ、それが裏目に出て、あんたが自分の姉だって発覚しちゃったわけだけど……」 少し、気まずくなってきた奈津美の言葉を攫うように、珠美が口を開きました。 「お城を抜け出すのなんて、そう簡単な事じゃないはずなのに、茜ちゃんの為に、何度も荘園まで来てたくらい、茜ちゃんの事大事に想ってるのね。ただの、おねえちゃんとしてだけじゃ、なくて。ううん、おねえちゃんだなんて、思っていないから、かな」 尽は、誰より、何より……茜を想っていてくれた。 第三者のふたりの言葉は、当事者である自分が考えているよりもきっと確実で。 それだけ、自分は尽に愛されているのだと想うと、また、どうしようもなく切なくなってきました。 こんなに、愛されていて。 こんなに、愛していて。 それなのに、それぞれの立場から、血のつながりがあるから、ふたりの想いは簡単には繋がらなくて。 「尽に……会いたい……」 こんな弱音、ふたりに言ったってどうしようもない事だと分かっているけれど、そう、漏らさずにはいられませんでした。 俯いて、唇を噛み締める茜を見て、友人達は困惑して、顔を見合わせました。 自分達だとて、友人のために何かしてあげたいのでしょうが……茜は、王女です。尽は王子です。そう簡単に、一般人の自分達が手を出せる領域ではないのです。 青い空には薄っすらとした白雲がゆっくりと流れています。吹き抜ける風が、水面を揺らして光を周囲に撒き散らし、水の匂いを攫って運んできます。そよそよと揺れる風が、悪戯でもするかのように、さわさわと草木を揺らします。 本来なら心地良いはずのそんな一時に、3人の娘達は、切ない空気に身を沈ませていました。 そんな3人の切ない空気に、新たな来客が割って入ってきたのは、太陽が微かに赤味を増してきた頃、でした。 つづく |
<言い訳>
友人ふたりの登場です。
新たな来客、それは・・・!?
・・・って、もう1人の友人役のお嬢様ですよ(ネタバレ?)。
ネタバレですが、現在書き進めている所では、
主人公であるところの茜と尽が再会しています。
この調子の更新では、恐らく、
次々回に尽が久々の登場で
次々々回くらいに再会、でしょうか。
(次回は、このシーンの続きです)
当初のプロットでは、
その後も長々とした展開があったのですが・・・
書き進められるか不安なので、大幅軌道修正を模索中。
・・・・次回の更新は、軌道修正が出来た頃に・・・多分。
・・・今更、読んでくださる方なんて、ごくごく少数
でしょうが・・・自分的に完結させたいので、頑張ります・・・。