ねえちゃん姫
<7>



 尽は時々の部屋にこっそり遊びに来てくれます。

 他愛無い話をしたり、ひとりで出かけた城下で手に入れた珍しいものを見せてくれたり、お城では決して食べられないような、庶民的で懐かしい食べ物を差し入れてくれたり。

 お忍びでのお出かけにも、二度程連れて行ってもらいました。
 ただ、田舎育ちで警戒心の薄いが、一度、城下で危ない男にひっかかりそうになった件があって以来、尽は、のお忍びを止めるようになってしまいましたが。

「つまんないな……」

「だって、ねえちゃんが無警戒すぎるから、仕方ないだろ?」

 繊細なレースのカーテンを通して午後の陽射しが入り込んで、部屋を明るく暖かく照らしています。
 開け放たれた窓からは、ふわふわとした風が入り込んで、カーテンを波打つように揺らせます。
 丸テーブルの上には、銀のティーセット。芳ばしいお茶の香がふたりの周囲を満たしていました。

 今ふたりがいるのは、王族専用のプライベートルームです。
 姉弟なのに、こそこそ会ってばかりでは変だ、と、主張したの提案で、ややこしい手続きを経て、ふたりはこうしてのんびりとお茶を楽しんでいるのです。

「まぁ、いいんだけど……お城のお庭だけでも、十分に広くて、まだ把握しきっていないくらいだし」

「そうそう。しばらくは城の庭でも探索しとけばいいじゃん。色々な発見があるはずだよ……多分」

 とにかく、を外出させたくないらしい尽の内心が見えて、は溜息をつきました。

 お城の生活には随分慣れてきましたが、動きにくいドレスと靴では以前のように快活に動き回る事もできず……徐々に体が重くなってきている気がするのです。

「たまには、走り回ってみたいな……」

 ぼそっとが呟くと、ふいに第三者の笑い声がしました。
 開いた窓、テラスの方からです。

 驚いて、目をやると、いつからいたのか、父王です。

 お忍び云々の会話を聞かれていたかも、と、ふたりはぎくりとしますが、父王はそれを聞いていたのかいないのか、上機嫌でふたりと同じテーブルにつきました。

「血の繋がった姉弟ふたり、仲が良いのは良いことだ」

 その言葉に、尽が眉根を寄せたのには気付いて、首を傾げましたが、理由が分かりませんし、聞き出すタイミングもなさそうです。

「さて、運動不足のに良い報せがある」

 少しもったいぶった口調の父王に、は首を傾げ、尽ははっきり分かるほど不審気な顔をしました。

「私はこの週末より、離宮へと静養にでかけるのだが、ついては来ぬか?」

「え? 離宮?」

「西の離宮は、今の季節、もっとも美しいだろう。湖で舟遊びもまた良いかもしれぬな」

「私、行ってもいいんですか!? だって、お勉強とか……」

「さて、勉学をまったく休ませるわけにはいかぬが、そなたが優秀な生徒であるのは目付け役から聞いておる。目付け役も同行させるから、今度は自然の中で学べば良かろう」

 の目はキラキラと輝きます。
 少し窮屈とも思っていたお城の生活を離れ、自然溢れる離宮で過ごせる!
 しかも、父王の静養となれば、父王とこうして過ごせる時間は普段より確実に多いわけで。
 それは、とても魅力的な誘いであり、は二つ返事で同行を申し出ますが……。

「尽、そなたは……」

「西の離宮、ね……。どうせ、ついてくるな、だろ? 俺にはまだまだ学ぶべき事が多い、って?」

 不貞腐れたような、あるいは挑戦的な言葉に、父王はかすかに眉根を寄せて、頷きました。

「分かっておるのなら、良い。そなたは、今しばし、王の子としての責任感をもって行動に当たって欲しいものだ」

 その言葉は、尽が時々お忍びに出かけるのを知っているかのようでした。
 尽の渋面は深まります。

「あ、あの……」

 父と息子の険悪な雰囲気に、はおろおろします。
 には甘すぎるくらいに甘い父王なのに、尽に対するこの態度。
 尽にしたって……ここまで、尽が不機嫌になるのを、は初めて見ました。

「で、でも、尽も、お勉強毎日がんばっているみたいだし、私も尽と一緒の方が楽しいと思うし……一緒に行ってもらっては、いけませんか?」

 が懇願するように言うのに、父王は苦笑し……けれど、頭を振りました。

の優しさは分かるが……それは、だめだ。こやつは、次代の王。まだまだ学ぶべき事は多い。こんな所で、遊んでいる暇はないはずだ。そうであろう?」

 父王の高圧的とも思える言葉と口調に、尽は、ぎりっと歯を食いしばりました。

 かなり、一触即発な雰囲気ですが……尽は、膝の上で拳を握り締めて、何も言いませんでした。
 も、それ以上何も言えませんでした。
 ただ、気遣わしげに、尽を見詰めるばかりです。

 父王は、尽への厳しい態度を変え、穏やかにに笑いかけて。

「次の月になる前には、出立する予定だ。詳しい事はまた連絡するから、楽しみにしているといい」

 そう言って、去っていきました。

 父王の自分への態度、尽への態度……はっきりわかるほどの違い。
 それが父親の、息子への接し方、娘への接し方なのでしょうか?

「あのね、尽……お父様って……」

 父王が立ち去って、静かになり、それでも黙りつづける尽に、は恐る恐る声をかけました。
 そのの言葉を遮って、尽は激さを押し殺した口調で言います。

「俺は、息子だから。次の跡取りだから。だから、厳しくするんだとさ。けど……最近、それだけじゃない」

 顔を上げ、昂ぶった感情のためか、赤くなった顔でを真っ直ぐに見ました。

「多分、ねえちゃんの事があるから。俺が、今だにねえちゃんを諦めきれていないのを、あの人は知っているから……」

 そこで、崩れるように笑いましたが……それは、今にも泣きそうな表情でした。

「だから、俺にイチイチ釘を刺しにくる。ねえちゃんは、血の繋がった姉なんだ、って。俺がいくら望んでも、無理な相手だって……」

 尽は、くしゃりと髪をかきあげて、呼吸を殺して……俯きました。

 とてもとても苦しそうです。
 己の感情に、苦しんでいるのでしょうか。

 は、たまらなくなります。
 尽が愛しくて……それは、こうしてお城にやってきてから、ますます募る想いで。けれど、きっと、それは、弟への情愛で……。そうでなくてはならない感情で。
 だから、こんなふうに苦しむ尽を見ると、抱きしめたくてたまらなくなりますが……抱きしめられません。
 だって……尽が苦しんでいる原因は、自分なのですから……。

 尽に向けて伸ばしかけた腕を、引っ込めて、尽に向ける言葉を捜します。
 どうしたら、尽の苦しみを……この一時だけとはいえ、和らげてあげるか、考えます。

「あのね……その……尽は、西の離宮って行った事あるの?」

 とりあえず、話題を逸らそうと思います。
 関係のない話題で、尽の気を逸らそうと言うのです。

「やっぱり、遠いのかな? 馬車で行くのよね? 私、あまり馬車で遠くまで旅したことないから、楽しみなの」

 わざと明るく話題を振ると、俯いていた尽は、呼吸を整え、大きく息を吐き出し……ゆっくりと顔を上げました。
 まだ少し葛藤の影はありますが、どうにか微笑んでを見詰めていました。

「すごいガキの頃に2,3度、避暑に行ったかな。馬車で半日くらいかかる。大きな湖の傍に立つ、白壁の離宮で、大きくはないけど、居心地は悪くないと思うよ。芝が広がった庭園は、裸足で歩けるくらいに整備されているし。それに……」

 言い出して、何か思い出したように口をつぐむ尽。表情が再び険しくなっていきます。

 西の離宮に何か嫌な思い出でもあるのでしょうか?

 は、せっかく明るく戻った雰囲気を壊すまいと、明るい声で会話を続けます。

「そうなんだ! 楽しみだなぁ。裸足で芝生の上で走り回ったり、寝転がってみるのも楽しいかも! あ、湖があるってことは、舟遊びができるんだよね?」

「ああ。城の使用人に言えば、ボートを出してもらえるだろう」

「私、ボートって乗ったことないんだ。楽しみ! ね、もしかして……泳げたりする、その湖?」

「そりゃあ……けど、まさか、ねえちゃんが!?」

「あはは。子供の頃、荘園の川ではよく泳いでたよ〜」

「……そりゃ、見てみたかった」

「……ヘンタイ」

「……けど、まさか、その年で泳ぐって事はないだろ?」

「できるなら泳ぎたいけどね……さすがに、無理っぽい?」

「ねえちゃんが泳ぐなら、俺は、親父の反対押し切ったってついていくね、うん」

「やっぱり、ヘンタイだよ。何の想像してるの!?」

 たわいのない会話の応酬。
 やっと、尽も本来の調子が戻ってきたようです……いえ、まだその瞳には、どうしようもない遣る瀬無さと、理由の分からない不安のようなものが宿ったままですけれど。

 は、尽に気付かれないように、ほっと溜息をつきました。

 そうして、他愛無い会話を続け……ふたりが一緒にいられる時間が終わります。

「なぁ、ねえちゃん………」

 別れ際、尽がに真剣な調子で声をかけてきました。

「なぁに?」

 尽は苦笑いを洩らして、ぼそっと小さな声で言いました。

「俺……自分の感情も押さえられないガキで、ごめん、な?」

 自分の欠点を見詰めての尽の素直な謝罪に、は微笑みました。

「尽は、大人だよ。私よりも色々な事知ってるし……そうやって、自分自身の事、ちゃんと理解できてる。私なんて、時々、自分自身の事さえ分からなくなるもの」

 そう、分からない。自分自身の、想い……尽への、想い……。
 の言葉に、尽は微笑みました。

「うん……ありがと、ねえちゃん……。……あ、それと……」

 ふたりを迎えに来た、それぞれのお目付け役に聞こえないように、尽はの耳元で耳打ちしました。

「また、近いうちにそっちに遊びに行っていい?」

 の返答なんて、ひとつしかありません。

「勿論だよ」

 の言葉に、尽は、嬉しそうに笑いました。




 尽がやってきたのは、が父王より、旅の詳細を聞いたその直後でした。

「で、旅行はどうなったの?」

 もう随分遅い時間です。
 お城の者達も、警備に当たっている衛兵以外は眠りについているでしょう。

 煌々とした灯りで誰かに気付かれるわけにもいかないので、テーブルの上に灯した小さなランプ一個のかすかな灯りだけの部屋で、ふたり向き合っています。

「次の週からだって。荷物とかの準備は、メイドに任せておいて、当日までいつも通りに、って言われたわ」

「ふ、ん……まぁ、そんなもんか」

 尽は、一度、大きな欠伸をして伸びをします。

「もしかして、眠いの? 無理して来てくれなくても……」

「あはは……。いや、しばらくねえちゃんの顔見られないから、今のうちに見ておこうかと思って」

「……ばか」

 薄暗い部屋、尽にじっと見詰められていると……胸がどきどきします。
 弟になれるように努力する、と言っていたくせ、尽にはその努力が見当たらな気がします。特に、先日、夜にこっそりと荘園まで懺悔しに行った、あの日以来、尽は、己の思いを隠そうともせず、を真っ直ぐに見詰めます。

 尽の素直な想いに、はいつも戸惑います。
 いえ、勿論、迷惑とかそういうのではないのです。むしろ、嬉しいくらいなのです。
 けれど、弟にそういう想いを向けられるのは、間違っている、とも理性的な部分では思うわけで。
 ふたつの思いに挟まれて、結局、戸惑うしかなくて。

「あのな、俺さ……」

 不意と真剣な表情を作り、尽は告白する真剣さで切り出しました。

「親父に言われたよ。今回、親父が旅行している間、俺が代行で政務を行え、って」

「え? それって、すごくない?」

「どうだか。どうせ、俺の補佐だっつて、政務官やらが大体の仕事するんだろうし。難しい判断はどうせ親父に仰ぐだけだろうし」

「で、でも……お父様の代行ってすごいよね。もしかして、そろそろ政務になれておけ、って事なのよね? 尽は、それが嫌なの……?」

 の言葉に、尽は少し押し黙って、考え込み……ゆっくりと口を開きました。

「親父の後を継ぐ……この国の王になる事は、嫌じゃない。いずれはそうなるべきだと教育されてきたし……いや、その教育云々より、今は、俺は、俺自身で、いい王になりたいと、思う。そう、ガキの頃は、勝手に将来を決められている事に腹が立って、反発しようとして、勝手に城を抜け出したりして……その結果にねえちゃんに出会えたわけだけど……」

 懐かしむように細めた瞳で、をじっと見詰めます。

「ねえちゃんと、あそこの荘園で過ごして……それから、だよ。俺が、そう思えるようになったのは」

 尽は、優しい笑いをもらして、瞼を閉ざして、思い出すように言葉を継ぎます。

「田舎の小さな荘園。何不自由ない生活、とはいかないけど、そこにいる皆はいつも楽しそうで……そういう生活を、守っていきたい、って、思う。ねえちゃんが育った場所を、この国に沢山あるだろうそんな小さな生活を、守っていきたいって、そう、思ったし……ねえちゃんが、ここにいる今も、そう思いつづけている」

 とても、嬉しい言葉です。

 田舎の荘園にいた頃は、お城に憧れを抱いた事もあり……お城に来てからは、以前の生活が懐かしくて。
 にとっては、どちらの生活もそれぞれに苦しい事や辛い事があるにしろ、幸せだったと、幸せであると、そう言えます。

 こんな幸せな生活を送れるのは、勿論そこに住む人々の努力もあるでしょうが、それ以外に気付かない所で、他の人によってもたらされてるものもあるのでしょう。その他の人こそが、国を統治する王だと思うのです。
 父王と会って、その厳しくとも穏やかな人柄に触れ、これこそがこの国そのものなのだ、と、思いました。
 は、尽にもそうなってもらいたいと思います。いえ、尽なら、そうなれるでしょう。

「うん……。尽なら、大丈夫。きっと、もっと、幸せな生活を作っていけると思う。尽が造るこの国の未来が、待ち遠しいよ。だから……ね? お父様の代行政務、頑張れるよね?」

 の少し釘をさすような言い方に、尽は、うっと息を飲みましたが……次にひどく長い溜息をついて、顔をあげ、苦笑しながらを見詰めました。

「親父から無理に押し付けられるのにムカつくだけで……嫌じゃないんだよ、本当は……。はぁ、やれやれ……けど、ねえちゃんに、そう言われたら、本当に、やらなきゃな、って思う。親父に高圧的に言われる何十倍の威力があったか……」

 くすっ、と、は笑います。
 尽が、やっぱり王子様なんだ、と、こういうときに実感するのです。
 国のことを考えた、とても良い王子様です。

 だから……やっぱり、尽には、早くお妃様になれる方を見つけて、落ち着いて欲しい……この国の未来を、造って欲しい、と、切に思います。
 けれど……それは、自分が今、この国の王女として教育を受けているからこそ思う理性的な考えで、その理性の裏で、本来の感情的な自分が、その考えにひどい胸の痛みを訴えるのです。

 尽に婚約者が出来てしまったら、もう、こんな風に姉弟仲良くお話する事もないのだろう、と。尽は、きっと、その婚約者ばかり相手をして、自分はただの姉として接せられるだけになるのだろう、と。
 こんな幸せな尽との関係が壊れてしまうのが辛い…………いえ、そうではない。それだけでは、ないのです。

 尽が自分以外の誰か女性に、自分に微笑むように微笑みかけ、自分に接するように優しく接し……いえ、きっと、自分に対するよりも、もっと、ずっと、深い愛情で相手を包み込むのだろう、と……考えると、泣きたくなるほど、悲しくなります。どうしようもなく、切なくなります。

 けれど、は……自分の愚かな、感情に先走った考えをふりきるように、それを打ち消すように、理性的な言葉を口にします。

「後は、早くちゃんとした婚約者を探して、見つけて、落ち着けば、お父様も安心できそうだね」

 は、ただ、自分の、馬鹿馬鹿しいほどに感情的な想いを抑え、理性的にふるまい、理性的な事を口に出すのに必死で、その言葉が尽にもたらす感情……そこまで、考えていませんでした。いえ、考える余裕なんて、ありませんでした。

 の言葉を聞いた途端に、尽の表情は強張りました。
 怒っているのでなく、困惑しているのでなく、泣き出しそうなのではなく……いえ、それらすべての感情を含めた表情だったのかもしれません。

 は、びくりとして……言葉を継げませんでした。

 自分の表情を自覚した尽は、から顔を逸らして、唇を強く噛み締めました。

「やっぱり……俺、自分の感情、上手くコントロールできないや……とんだガキ、だな……」

 喉の奥からやっと押し出した自嘲の言葉。

 は自分が、また尽を苦しめているのを実感して、たまらなくなりました。
 もしかして……もしかして、こんな風に会う事で姉弟として仲良くしていると思う事自体、間違いかもしれない。こうして会う事で、ますます尽を苦しめているのかもしれない。自分が、血縁の情を追い求めるあまり、尽に苦しい思いをさせているのかもしれない。

 は、そう、思いました。
 そうして、その結論が、微かに頭に浮かびます。

 それなら……自分が、尽から離れればいい。離れいけば、きっと、尽もいつか苦しい想いを忘れて、新しい想いを見つけられるかもしれない、と。
 ……もっとも、留学している間も、ずっとの事だけを想い続けてきたほどの尽の強い想いが、そう簡単に忘れられるかといえば……きっと、それは……。

「なぁ、ねえちゃん……」

 顔を上げ、泣きそうな表情のまま、尽はに呼びかけます。

「これ、まだ言うべきじゃないかもしれないけど……もし、もしも……」

 言う事を戸惑いながら、尽は口を開きます。


「姉弟が……俺たちが、結婚できるとしたら、ねえちゃんは……」


「……っ!?」

 ――姉弟が結婚できる?

 ――尽と結婚?

 は、驚きに思考が機能を停止したように、何も、答えられませんでした。
 ただ、目を丸くして、体を堅くして、自分の返事を待つように見詰めてくる尽を、見返すばかりで。

 それは、尽の願望なのでしょうか?
 それとも、有り得る可能性の話?

 分かりません。それを、問い掛ける事さえ、できません。
 ただ……鼓動が早まります。
 加速度をつけて、ドキドキ、と、鼓動が痛いくらいに早まっていきます。

 尽の事は……好きです。愛しいと思います。一緒にいると楽しくて、有り得ないと思いながらも、できるならば、ずっと一緒にいたいと思います……それが、弟への情愛にすぎないものか、それ以外のものか……自身は、しっかりと把握はしていませんが。

 結婚するとは、つまり、それらの感情をすべて満足させる事ができる事で。
 ……けれど、やっぱり、ふたりは姉弟で。普通なら、弟となんて結婚できないはずで。

 冗談で、尽がそんな事を言ったわけではない、と、目の前の尽を見れば分かります。尽は真剣です。

 本当は、口に出して言わなければなりません。『弟とは、結婚できない』と、きっぱりと。
 でも、言えません。言う事ができません。
 理性では分かっています。ふたりが結婚なんてできない事。ふたりが姉弟だと知ったあの日から、それは、確定事項のはずでした。だから、そんな可能性を考える事自体、有り得ないはずの事でした。

 けれど……。
 尽と結婚できる……尽と、ずっと、一緒にいられる。尽が、他の誰のものにもならず、自分にだけ、優しい情愛を注いでくれる。
 にとって、尽のその言葉はたとえ夢想だとしても、とても魅力的に聞こえたのです。

 理性と感情。どちらの反応を返す事もできず、口を半開きにして、戸惑い続けるに、尽はくすりと笑いました。

「答えは……後でも、いいよ。俺も、まだ、はっきりとした事、言えないし。でも……可能性は、考えておいて? 前にねえちゃんの先約をキャンセルしちゃったけど……」

 尽は動き、まだ硬直を解けないの傍まで来ると、困惑するの眼差しに微笑みかけて、再び、あの時のように……。

 口付けを……。

「また、予約、入れたい……」

 軽く触れた唇の熱が離れ、囁きの吐息の熱がかかります。

「可能性は否定されるかもしれないけど……予約が取り消される事になっても……俺の事、忘れないで欲しい……」

「つく……」

 何か言おうと、言わなければならないと、必死で口を開けたですが……それは封じられました。
 再び、尽の唇が重なってきて。

 尽の指に顎を絡め取られて、頬を引き寄せられて……唇は深く重なってきて。

「……っ、んっ……!」

 抵抗しようとした腕に尽の体が強く寄り添ってきて、体ごと動きを封じられて。
 初めてなされるそんな口付けに、抵抗するよりも、頭が混乱していて。
 伝わってくる尽の体の熱と、情熱的な口付けと、必死なまでに求められる想いと……。

 尽が弟なのだという認識はどこかにありましたが、それよりも、こんな時に初めて感じる、自分が女なのだという本能的想い。

 テーブルの真中でゆらゆら揺れていた炎が、燃料切れのため、ゆっくりとその灯りを小さくしていきます。

 長く続く口付け、抱擁……。

 抵抗する隙はあったのです。
 一度二度離された唇から、逃げようと思えば逃げられたのです。
 でも……逃げられなかった。
 逃げたく、なかった。尽を、感じていたかった。
 姉弟なのに……姉弟でそんな口付けをしてはいけないはずなのに。

 は、自分の心が体が、素直に尽の心とそれを伝える口付けを受け入れてしまっているのを、不思議と実感しました。
 そうして、自分の心の奥底にある、尽の想いに呼応している想いに、漠然とではありますが、気付くのでした。

「ねえちゃん……?」

 唇を離した尽が心配そうに問い掛けてきて……頬にその手が触れました。
 暖かく濡れた感触。唇に流れ込んだ、しょっぱい……涙。
 自分が、泣いていたのを、は知りました。

「……私……」

 整わない呼吸で、何か話そうとしますが……涙の理由は、自分でもはっきりとしません。
 何を言っていいか、分かりません。

 漠然と気付いた想いは、触感はあるのに掴めない水のように、掬い上げようとするの指の間をすり抜けて、再び心の奥底に流れ落ちてしまいました。そうして、微かな残滓だけが、の手のひらに残って、それが、の涙を誘ったのです

 は、顔を上げげ、かすんだ視界で、尽を見上げます。
 ランプの炎はすっかり消え、闇に慣れてきた目が、困惑する尽の顔の輪郭をはっきりさせます。

「私……分からない……」

 分からない。
 理性が、素直な想いを自覚する事を阻むのです。

 の曖昧な答えでしたが、尽は穏やかに微笑みました。

「ん……いいよ、まだ、それで」

 自分がぶつけた想いに、がはっきりした拒絶を示さなかった事こそ、尽には嬉しい事なのでした。

「ただ、ねえちゃん、俺の先約、忘れないで、な? もしも、俺たちが結ばれてもいいとはっきりした結論が出て、その時、まだ、ねえちゃんの『あるべき場所』が見付かっていないのなら……俺が、その場所になりたい。ねえちゃんが、心から安心できる場所に、なりたい」

 尽の、真摯な言葉に、鼓動を躍らせるの唇に、最後にちゅ、と、軽い口付けをして……尽はから離れました。
 は、真っ赤です。

「真っ暗になっていい雰囲気だし……本当は、続きまで挑みたいけど……それは、いつか来る日にとっておくよ」

 くすくすっ、と、笑う尽の態度に、は我を取り戻します。

「も、ばかっ。知らないっ!」

「今はまだそれで良くても……ちゃんとした結論が出たら……今日のこと、俺の先約、知らないなんて、言わせないから」

 冗談含みの口調と、真剣すぎる眼差し。

 は、尽の真剣さに上手く応える事ができず、火照った頬を両手で挟み込んで、俯いてしまいました。

 小さな溜息混じりの笑いが聞こえます。

「ねえちゃんが旅行から帰ってきたら、きっと、結論は出ているから……」

 少し考え込むような表情で尽は言葉を止めて、じっとを見詰めました。

「……西の離宮に行っても、忘れないで」

 切なげな言葉で、表情でした。

 季節を越える程の長い間離宮に留まるわけでもないのに、どうして尽はそんな事を言うのでしょうか。
 いくらなんでも、こんな衝撃的な事を簡単に忘れるわけなんてないのに。

 は小首を傾げて、言葉を続ける尽を見詰めていました。

「俺の先約は、絶対誰にも譲らないから。ねえちゃんに最初に印をつけたのは、俺だから。それを、忘れないで欲しい。お願い」

 言いながら、いつかのように小指を差し出す尽に、は戸惑いましたが……真剣で、やはりどこか切なげな尽様子に、そっと、小指を絡ませました。

 尽は、絡ませたふたりの小指を見ながら、安堵したように表情を緩めて微笑みました。

「……約束、だから、な? ねえちゃん」

 もコクンと頷きます。
 尽は、破顔一笑して、の頬に勢いよくキスをすると。

「旅行、楽しんで来て。気が向いたら、手紙くらい書いてくれよな! ……おやすみ、ねえちゃん!」

 元気よく駆け出し、夜の中庭へと姿を消しました。

 唇に、頬に残る尽の唇の感触。
 体中に感じる、自分に向けられた尽の熱い想い。
 そう簡単に、忘れられるわけがありません。

 は、自分の体で実感した尽の存在感を想い出すたびに、耳の奥のほうで鼓動がトクトクと大きく鳴り響くのを実感して、頬を染めずにはいられませんでした。

「私……」

 心の奥底にある想いを、少しだけ掬い上げる事ができました。


 ――尽が、好き。


 それは、血肉を別けた弟への想いではなくて、もっと別の……。

 トクトクと耳の奥で鼓動が痛いくらい鳴り響きます。
 体が火照ってきます。

 それは、なんだか、とても、幸せな気分でした。




つづく




--BACK--





<言い訳>

更新日がバレンタインにつき、少し甘い目のシーンを!
(バレンタイン関係ないですけど^^;)

ねえちゃんが、やっと己の気持ちを自覚しかってます。
そして、尽の言う、ふたりが結ばれる可能性は・・・?

尽くんのご登場は、今回からしばらくなしです。
ねえちゃん、次回からは西の離宮にてすごしますが、
そこで新しい出会いと、新たな展開が。

書き溜めしてあったお話が、そろそろ尽きそうなので、
頑張って続きを書かないといけませんな。
がんがんいきますよ〜・・・多分。