千尋の眠れない夜



 はあっ。
 
 薄い唇からもれる、妙に艶かしい吐息ひとつ。

 クセのない黒髪をかき上げる仕草さえ、しっとりとした艶を帯びているように見える。
 
 悩めるその姿は、この世のものとは思われない(ある意味この世のものではなかろうが)くらいに、色っぽい。

 そう、お色気ムンムン(死語?)である(見る人が見れば)――いや、少なくとも、千尋には、そう見える。


 古びてくすんだ木目をさらす木の柱と、剥き出しの漆喰の壁。陽射の通らない、少しじめじめした空間は……油屋の従業員用通路。

 真っ黒な手拭をほっかむりした、どこからどう見ても怪しげな人物は、油のよくのったゴキブリのごとく漆喰の壁にぺたりとはりついて、ある人物ひとりを見つめている―― 匂いたつような色香を漂わせるその人を……

 それは、白と蒼をベースにした水干を身に着けた……人物。少年? 少女?――油屋の帳場の責任者、ハクである。

「……本日は宴会の予約が4件入っている。会場の準備はできているな。どれも大口のお客様だ。絶対に間違いのないように、席数とお出しする料理の数の確認を怠るな。宴席につく予定の者のリストはどこだ? 人数をけちるんじゃないぞ」

 書類に目を通しながら、部下達に指示を出しているのだけれど、指示がひと段落つくたびに、微かな吐息を漏らすのはなぜだろう。

 ふうっ……。

 書類を置いて、目頭を押える。

 ぎりぎりまで節約された薄暗い電灯の元、白皙の肌は決して朱に染まる事はなく、その表情はひどく疲れて見える。

 はぁっ……。

 再び溜息をつき、顔を上げたハクは、開店準備の指示を出して回っている兄役が帰って来ている事に目を止め、微妙に惑う表情をした後、声をかけた。

「兄役」

「え、あ、はい、ハクさま」

 ここの所のハクの不調というか不機嫌さに気付いている兄役は、ぴくんと背を震わせて、恐る恐るハクの方を振り向く。
 一体何を言われるのか……気が気ではないという様子がありありと見て取れる。

「……」

 ハクは、そんな兄役の恐れには気をとめず、ひたすら自分のこれから口にしようとしている事を逡巡している。

 兄役の額から流れるいく筋もの脂汗。いいガマの油が取れそうだ。

 逡巡する事十数秒。(兄役の足元には、油溜まりができている……ワックス経費が削減されるだろう)

 ハクは、決心したらしく、それでも歯切れ悪く口を開いた。

「今日、千は何をしている?」

「え? あ……はぁ、確か……」

 どうも、お叱りを受けるわけではないと分かってあからさまにほっとしている兄役。

 ちなみに、この時、薄暗い通路の壁にへばりついている人物が、ビクン、と体を震わせていた。

 ハクが千の事を気にするのは、日常茶飯事……と、いうか、ここまであからさまに口に出すことは普段ないのだが……何かあったのか……いや、でも、聞かないほうがよかろうとばかりに、兄役は事務的な口調を作る。

「ああ、千は本日は休みとなっていますな……」

 従業員の出勤予定表を見ながら兄役は言っておきながら、はたとする。

 ハクが、あの千をこの世界に留まらせた原因のハク自身が、千の休暇予定を知らないとは……。いや、これまでなら、ハクは千の予定はわざわざ兄役などに確認しないでも熟知していた……それどころか、合わせて休みを取る事もままあった。

 それが、今日、何故……。

 ちろり、と、横目使いでハクを見る兄役。

 ハクの不調・不機嫌の理由がわかった気がした。

 喉元まで出かかっている、ハクへの突っ込み『ハクさま、千と喧嘩でもされたんですか?』、それを飲み込んで、兄役はさしたる仕事もないのに、開店順でおおわらわの湯屋内に、いそいそと戻って行った。

 触らぬ神に祟りなし!!!

 身をもって理解している油屋従業員。懸命な判断と言える。

 いや、だが実は、兄役の想像は外れていた。

 ハクは千尋と喧嘩したわけではないのだ。

 喧嘩した覚えもないのに……。

「千尋は、最近どうしたのだ……?」

 はふっと、何度目になるのか溜息をついた。

 別に、嫌われているわけでないのだろうが、微妙に避けられている。

 仕事が始まる前と後での逢引も、ここしばらく用がある、と、断られる事が多い。いや、会ったとしても、千尋の視線が落ち付きなく宙をふらついていて、前のように真っ直ぐに見詰めてくれることもなくなった。

 それに、何より……。

 ハクは先ほどから感じ続けている、妙〜な、熱視線の方向をばっと振り向く。

 途端、逃げ去る足音。

 ぱたぱたぱた、ドシン(<多分、こけた音)、ぱたぱたぱた………

 遠ざかる足音。

 はふぅぅ。

 深い、深い溜息。

 さっき逃げ去っていった存在は、もう、気配を探るまでもなく誰だか分かっていた。

 だから、溜息。

 そして、頭を抱える。

「一体……」

 どうしたものか……。

 言葉なく続け、繊細なまでに白く細い指で、髪をかき上げる。

 白皙の肌に、影が差す。疲れた表情は、やつれて見える程。緑の瞳は、少し虚ろに宙をさ迷う。

 ――悩める姿に、妖しいまでの色気が漂う。

 そんな自分に気付かずに、ハクは再度悩ましげな溜息を吐き出す。

 そして、思い出すのだ。

 ここ数日の、千尋の奇行とも呼べる行いの数々を……。

 

つづく


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