彼方から呼ぶ声
〜懐かしのあの地へ

 

 

「アンジェ、どこだよ!?

「もっと、うえにあるよぉ」

 うらうらとした陽射しが心地よい、長閑な正午。

 この館が建った時より庭に根を伸ばし、枝を広げる大木が作る影にいる稚い少女の年のころは五、六歳。柔らかな栗色の髪と、きらきら輝く、大きなブルーグリーンの瞳をしている。そして、その木の張り出した枝に掴まっている少年は少女より幾分年長の十一、二歳くらいだろうか。少女同様の栗色の髪と、榛(はしばみ)色の瞳をしている。

「どうしたら、こんなトコに鞠をひっかけられる!?

 三メートルは下にいる少女を見下ろし、顔を青くした少年は、一度目をきつく塞いでから、気を取りなおして、今度は上を見上げる。

「だって……どこまでマリをなげられるか、ためしたんだもん。そんなところまでいくなんて、おもわなかったんだもん」

 少女は、怒られたことにしゅんとしながら、ばら色の頬をかすかに膨らませた。

「あーもう……。……ああ、あった……でも、手が届かないな……」

 木の幹にしがみつきながら、うーんと手を伸ばすけれど、とても鞠までは届きそうもない。手を伸ばし、身体を伸ばし、そして、枝の上につま先立って……。

「あ、もうちょっと!!

 少女の声に驚いて、足を滑らせた!

「うっ、わあああっ!」

「ミシェルおにいちゃま!?

 ―――間一髪。

 木の幹に逆さにしがみつく事ができた。

 少年……ミシェルは更に顔を青くして、冷や汗を流しながらも体勢を整えなおす事は出来たけれど……それ以上、鞠を取ろうとする気力は湧きそうもない表情をしている。

「アンジェー、もう、諦めろよ。鞠くらい、他にもあるじゃないか」

「だめーっ! あれ、キティからもらったんだもん。アンジェ、とってもだいじにしてるのっ」

「大事なもの、木の枝に引っ掛けるようなことすんなよお」

 アンジェに呆れたように言ったのち、再び頭上にある鞠を見上げて苦虫を噛み潰したような顔をする。

「それにしても、あの鞠、キティからもらったものだったのか……。何が子猫(キティ)だ……あのくそ生意気なガキ……。―――なのに、アンジェは妙に懐いてんだよなあ……くそっ」

 最後のうめきは鞠に手が届かないゆえなのか、それとも、気に食わない相手に妹が懐いてしまっているが故の嫉妬なのか……。

 ともかく、ミシェルは出きる限りの努力はした。彼にとっては精一杯の努力であったと言える。例え、結果がはかばかしくなかったとしても……。

「あー駄目だっ! もう! アンジェ、諦めろ! 無理だ、無理っ!!

「やーっ!! やだっ! やだあっ! ……いいもん。……ミシェルおにいちゃまは、もう、いいもん。リカルドおにいちゃまにたのむもんっ!!

「アンジェ!?

 少女が頬を膨らませて駆け出そうとするのを、ミシェルは慌てて静止する。

「アンジェ! だめだよっ! 兄さんは、昨日帰ってきたばかりで、疲れてるんだから休ませておいてあげなきゃ!」

 けれど、少女は、思い切りあかんべーをして、樹上のミシェルの視界から消える。

「アンジェ!?

 ミシェルは更に慌てて、木を降りようと奮闘を始めるものの……正直なところ、肉体労働より頭脳労働が専門の少年は“行きはよいよい、帰りは怖い”の状況に再び顔を青くした。

「ミシェル?」

 顔を真っ青にしながら、今いる枝から下の枝にどうにか足を乗せた頃、下からかかる声に、複雑な心境ながらも安堵を覚えた。

「兄さん!」

「へえ、お前が木登りしているなんて……実に珍しい。これは、寄宿舎から久しぶりに帰ってきた甲斐があった」

 からかう兄リカルドの言葉に、冗談どころじゃない状況のミシェルはむっとして声を荒げる。ただし、下を見られない状況で……。

「ボクだって、木登りくらいするよ! それよりっ……」

「分かってる。アンジェの鞠だろう? お前達の声は、俺の部屋までよく聞こえたよ」

 声がするが早いか、リカルドはあっという間にミシェルの位置まで登ってきた。

「がんばれよ」

 四苦八苦するミシェルをからかうように軽くウインクして、リカルドは更に上の枝に登っていった。

 父親から受け継いだ硬質で赤茶のクセ毛と、母親譲りのブルーの瞳。十四歳少年の平均よりも随分と体格の良い、つまりは背も肩幅も広いリカルドの軽がるとした動きに、ミシェルは嫉妬よりも称賛を感じた。

「アンジェ、これか?」

「うんっ!」

 鞠を手にとって、木の下の少女に投げやると、今度はゆっくりと降りてきて、ミシェルと同じ位置に止まった。

「相変わらず、アンジェにいいようにこきつかわれているな?」

「……うるさいな……兄さんが、あいつを甘やかしすぎたんだよ」

「責められるのは俺じゃなく、父さんだと思うけどね。ま、息子ふたりの後の、待望の末に生まれた女の子だから、父親としては甘くなるのも当然か?」

「……それに、どうせ手放さなきゃならない娘だし、ね……」

 自分で言った言葉に、表情を曇らせる弟の頭をリカルドはくしゃくしゃにする。母親譲りのミシェルの柔らかな髪は、すぐにもつれてすごい有様になった。

「兄さん!」

「お前まで、娘を嫁にやる父親の感情になってどうする? お前、まだ十二だろう? そりゃ、老けすぎてるぞ?」

「兄さんだって、十分老けてると思うよっ!」

 反論して、反撃される。所詮、弟は兄には勝てない。

「リカルドおにいちゃまぁ! なにしてるの? アンジェとあそんでよぉ」

 下から拗ねた少女の声。

 リカルドは少女に手を振って、今行く、と声をかける。

「お姫様がお呼びだ」

 リカルドはつねり上げられて真っ赤になった頬をさする弟を残して、さっさと木を降りて行った。

「ミシェル! たまには、いい汗かけよ」

 冷や汗を流すミシェルに、下から励ましの言葉を送ったリカルドは、可愛い妹の元に駆けて行った。

 ミシェルは、ふーっと深い溜息をついた後、日溜りの中で無邪気にはしゃぐ、たったひとりの妹の背に、天使の翼を見たような気がした。

 

 

   

 今宵は新月。

 窓から差しこむのは、星々の輝き。月の光のないこんな夜は、遠くの宇宙の星の輝きさえも見えるようだ。

 アンジェリークは、宇宙(そら)を見上げる。

 瞳が追い求めるのは……懐かしい何か。

 新月が近づくごとに、どんどん強くなってきた、声。誰かの声。でも、それが、誰のものだか分からない。

 その声を聞くたびに、わけのわからない不安だけが胸に押し寄せてきて……怖くて、眠れなくなった。

「……また眠れないのか?」

 後ろからかかる声に、アンジェリークは慌ててカーテンを閉める。

「ごめんなさい。起こしてしまったわね……」

「いや、俺もよく眠れなかったんだ……」

 ヴィクトールは起き上がって、アンジェリークに寄り添った。

「ここの所、ほとんど眠ってないようだな……大丈夫か?」

 彼女の顔をじっと見る。

 あまり、顔色がよくない。

「育児疲れかもしれないわね」

 冗談めかして言う。

 多くの仕事を抱える多忙な夫に迷惑をかけたくない。彼も、ほんの数日前に、数ヶ月に渡る長い出張から帰ってきたばかりで、疲れているのだ。

 彼女の気持ちが分かって、ヴィクトールも微笑む。

「育児疲れか……あいつらも手がかかる時期は抜けただろうし、週末にふたりだけでどこかに出かけるか?」

「子供達が拗ねるわよ?」

「親はなくても子は育つもんだ。それに、どうせ次の長期休暇には、どこかに連れて行けとせがまれるだろうし……」

 腕白盛りのふたりの子供達の、その姿がありありと目に浮かんで、ふたりは笑いあった。

「すまんな……ずっと傍にいてやることができなくて……」

 ふいに、耳元で、謝る真剣な声。

 アンジェリークは、ヴィクトールを見上げ、その胸元に頭を凭せ掛けた。

 しばらく、無言でそうしていた。

 次に顔を上げた時、ふたりは、いつまでたっても変わらない、優しい恋人同士のキスをした。

「……不眠症が続くようなら、ちゃんと医者にかかれよ?」

「んっ……」

 キスの後、囁く夫に笑顔を見せて、それからふたりは暗黙の了解のように、ベッドで身を寄せ合う。

「疲れればよく眠れるようになるさ……」

「そうね」

 くすりと笑う。

「それに、子供も欲しい?」

「ああ……だが、ふたりで限界かな?」

「まだ、大丈夫だわ。……次こそは女の子がいいわ、ね?」

「女の子か……。妹ができれば、あいつらの腕白も少しはおさまるだろうな。……もっとも、俺の年ではそろそろ無理があるような気もするが……」

「大丈夫よ。あなたの年齢で無理なら、世界の人口は激減しているわ!」

 結婚してからもう十年近くがすぎる。けれど、ふたりはまだ恋人の頃のように、強く想い合い、愛し合っていた。

「次の長期出張までには、できるといいな」

 ヴィクトールのぼやきに、アンジェリークはくすくす笑って、彼の背を強く抱いた。

 

 

 医者にかかるまでもなく、新月が終わり、満月が近づく頃にはアンジェリークの不眠症も治っていた。

 そんな、ある日……。

 庭で遊ぶ子供達を見ながら、ティータイムを取っているところに、レイチェルからの電話が入った。

『アンジェ、久しぶりっ。元気?』

 相変わらず、元気で溌剌としている。

「どうしたの? ここの所、あまり連絡なくて、心配していたのよ?」

『そう思うのなら、自分からも連絡よこしなさいよっ。まったく、ヴィクトールさんが出張から帰ってきて一ヶ月は連絡不精になるのよね、あんた。だから、私も連絡いれなかったのよ!』

「だって……レイチェル、しばらく実家に帰ってるんじゃなかったの? ご実家にいるのに、私がそうそう連絡入れられないでしょう? でも、なに、もしかして、もうこっちに帰ってきたの?」

『うん。だって、心配だからさ、うちのが。あいつ、一人でいると研究に没頭しすぎて、実生活に見境なくなるよの。偏った食事ばかりとるわ、昼夜の逆転した生活送るわで。天才って言われてる割には、馬鹿よねえ? やっぱり、私のほうがずっと天才だわっ。さっさと私も研究にもどらなきゃっ』

 言葉は悪いが、実は夫の事をとても心配しているのだ。

 アンジェリークはくすくす笑う。

「仕事、戻るんだ? 私は専業主婦だから、キャサリンの面倒くらいは見てあげるわよ?」

 アンジェリークの言葉に、レイチェルはサンキュと笑って応える。

「で、肝心のキャサリンは元気? こっちにいる間に二、三度会っただけだから……かわいくなった?」

『あったりまえ! なんたって、私の娘だもん。それに、きっと、天才に育つわよ』

「うん、そうね。天才同士の子供ですもの、ね?」

『あいつはともかく、よ。だって、あいつ、私よりもキャサリンにめろめろなのよ? 信じられる!? あの、お硬いあいつが、よ? あれで、本当に宇宙生成学の第一人者なのかしらねえ?』

「父親って、そんなものよぉ。うちは息子でもそうだったわよ?」

『そりゃ、あの人は“パパ”が似合うからいいわよ』

 レイチェルの言いように、アンジェリークはもう、笑いつづけている。

「そうね。聖地では、年下の方々の“父親”みたいだったものねぇ」

 アンジェリークの言葉に、レイチェルも大笑いした。

 ただ、笑いが収まった後……。

『聖地、かあ……』

 ぼそりつ呟く。

「レイチェル?」

『あのねー……。今回電話したの、これが言いたかったの。うちのダンナ、私が実家に行っている間、出張に行ってたみたいなの』

「え?」

『あいつって、ほら、こっちから聞き出さなきゃ、自分の事ってあんまし話さないじゃない? 特に仕事の事なんかはね。ま、あいつくそ真面目で嘘はつけないし、私はいつもうまく聞き出すからいいんだけれど……今回は口が堅くってさあ……でも、やっと聞き出せたのがねぇ……どうも、出張先は、聖地らしいのよ……』

「えー? どうして、聖地になんて?」

『わかんない。それ以上は、絶対に話さない。なにより、ロザリア様に口止めされたから、って持ち出されちゃ、聞き出せないでしょう?』

 聖地、ロザリア様。

 懐かしい、言葉だったけれど……胸にかすかな不安がよぎった。

『でね、なんか、もう少ししたら話せるから、って言うの。私にも、あんんたにも、ね』

「私? どうして?」

 電話の向こうから盛大な溜息が聞こえる。

『分かってりゃ、話すわよ、全部。でも……何か、重大な事だってのは分かるわね』

 その話について、それ以上は続かなかった。後のレイチェルとの会話はたわいない事ばかりだったけれど、アンジェリークの心には、ずっと不安が付きまとっていた。

 

 

 

 そして、数日後……。

 仕事から帰ってきたヴィクトールの様子が少しおかしいと思った。

 子供達を寝かしつけて、ふたりでティータイムをしよう、という事にやっと、彼は、率直に話をした。

「あのな、聖地からお呼びがかかった」

 突然の、あまりに突然の話に、アンジェリークは目を真ん丸くした。

「は?」

「俺とお前に、だ。ロザリア様から、直接の書状だ」

 そして、テーブルの上に、封筒を差し出す。

 女王補佐官ロザリアが使う、神鳥の透かし絵が入った青紫の封筒。厳重に施された蝋封。そして、懐かしい、ロザリアの直筆文字。

 そこに詳しい事は書かれていなかった。

 ただ、どうしてもアンジェリークに会って、話しておきたいことがあるから、早い目に聖地に来てくれ、といったものだった。

「何なの?」

「俺にも分からんよ……ただ、人づての召喚じゃなく、ロザリア様が直筆の手紙を封書で持ってこさせたということは、あまり他人には話せないような事情があるんじゃないか?」

 ヴィクトールは大きく息をついて頭を抱えた。

「重大事じゃないといいんだが……」

 アンジェリークはロザリアからの書簡に視線を落とし、いつかのレイチェルの電話を思い出す。

 そして、不安が、再び胸を覆う。

 ヴィクトールには黙っていたが、最近、夜、アンジェリークを呼ぶ声が、また強くなってきている事が、アンジェリークを更に不安にさせた。

 

 アンジェリークを呼ぶ声は、白昼夢にさえ現れるようになった。

 強い声。声にはならない声。とても懐かしいのだけれど、それが誰のものであるのか、思い出せない。なにより、その声が何を言っているのか……アンジェリークに何を伝えようとしているのかが分からない事が、もどかしい。

 ただ、その声が強い危機感を孕んでいる事は、よく分かるのだ。

 悲鳴を上げている?

 助けを求めている?

 けれど、それが誰のもので、なぜアンジェリークに危機を訴えているのか……なぜ助けを求めるのか……全てが不明。

 アンジェリークは不安になりながらも、その声の原因が知りたいと思った。

 自分に助けを求めるのは、自分だからその声の主を助けられるからだろう。

 助けてあげたいと思う。

 できるだけの事はしてあげたいと思う。

 でも、どうすれば助けられる?

 ―――その、答えは、聖地にあるような気がした。

 自分を呼ぶこの声の原因は、聖地に行けばわかるように思われた。

 だから、今回の聖地への召喚に、アンジェリークはすぐに応えることにした。

 

 大きな聖地の門。

 懐かしい、とても。

「行くぞ?」

 ヴィクトールに促されて、アンジェリークは門の中に足を踏み入れた。

 あの頃とまったく変わりがない、聖地の風景が目前に広がった。