| これがきっとふたりの日常 3 |
千尋は……仕事が終わってから、"いつも"の「ふたりだけのくつろぎタイム・イン・油屋の庭」にも現れなかった。 はふっ、と息をついたハク。 懐の中に入れてある物をそっと布地の上から押えて、千尋の顔を思い浮かべる。 できれば、今日中に、千尋に会いたかった。 会って、渡したいものがあった。 多分、ここに千尋が現れないという事は、今日はまっすぐ女部屋に帰っているはずだ。 それなら、こっちから乗り込むまで……だったのだが、まだ終業したばかりなだけに、女部屋の者達は寝静まってはおらず、ハクが赴いた途端、悲鳴と、歓声と、揶揄が巻き起こる。 「ハク様! 女子衆の部屋にこんな時間に参るものではありません!」とかいう極めて良識的なものから、「ハク様の助平!」「ハク様のむっつり!」当りもどさくさにまぎれているし、「今宵はアタシと一緒に寝てくれるのかい」という、本気だかからかいだか分からない言葉も混じっていた。 ハクは勿論、それらすべてを無視する。 が……肝心の千尋は部屋の隅っこに隠れてしまっていて、手が出せない。 話がある、と、呼んでもでてきやしない。 さすがに、部屋の中までは……入れないし。 廊下から必死で千尋に呼びかけるハクを、顰め面のリンが出迎える。 「千尋、今日は疲れたんだと。ハクサマも諦めて帰んな!」 けれど、ハクは諦めない。 「千尋!」 ついには、こらえきれず、リンを押しのけて部屋に駆け込んでしまった。 部屋にいた女たちがどよめき、非難がましい眼差しと声を向けるが……気にしない。 「千尋、来なさい」 目を丸くする千尋の腕を取り、抵抗しようとするのを押え込み……いや、抱きしめ、抱き上げ、そこから連れ出した。 他の女たちが目を丸くしているのにもお構いなしに。 駆けさる背中に、更なる言葉を投げかけられているのも、気にしないで。 「やっ、離して! 離してよっ!!」 お姫様抱っこ状態で、ハクの腕の中で暴れる千尋。 しばらく、ハクも黙ってその抵抗を許していたが……。 「ハクの、馬鹿! ハクの意地悪! ハクの浮気者っ!!」 千尋の言葉に、ぴたりと足を止め……腕の中の千尋を、見下ろした。 「千尋……」 「っ、え……?」 感情を抑えて、震える声。少し、怒ったように釣りあがった目元。 ハクが、怒っている? 公私の私の顔で、今まで怒られた事なんてなかったのに……。 びくっとした千尋は、思わず目を塞いでしまった。 そしたら……唇に暖かな感触が、ふれた。 口付、されたのだ。 「私は……」 唇を少しだけ離し……それでも、吐息がはっきりと千尋の唇にかかる位置でハクは呟く。 「そなたに対して恥じ入るような事は、なにもしていない……」 そして、再び口付ける。 ハクの情熱のままの熱いそれに、千尋は、眩暈を覚えた。 彼の気持ちが、荒れ狂う風雨のようになって千尋の中に入り込み、渦巻いていた。 唇を離されても、ハクの気持ちの奔流にあてられたまま、まだぼうっとする千尋が気付いた時には……ハクの部屋にいた。 純和風……決して広くも、豪奢でもないけれど、綺麗に整頓された清潔なハクの自室。 少し前までは、この部屋に来るたびに緊張したものだが……今の千尋にとっては、ハクの空気に馴染んだ、居心地の良い空間になりつつあった。 千尋は、座布団の上にゆっくり下ろされる。 「あの女神とは……私が油屋に来た頃からの知り合いなのだ……。何が面白いのか、ああやって、なにかにつけて私を構って遊ぶ。悪いお方ではないのだが……」 少しはた迷惑で……。 小声で付け足し、頭を抱える。 言い訳は、したくない。 けれど、黙っていては何も伝わらない。 言葉というのは、いとも厄介なもの。 それ以上に、感情というものは、もっと厄介で手におえないが。 千尋は、ハクの言葉の続きを待って、ただじっとハクを見上げている。 千尋にとって、ハクの言葉は言い訳……ではなく、正当な事情説明、だった。 それは、千尋が純粋なだけでなく、それほどまでにハクを信頼しているからこそでもあるからだろう。 ハクは、ふうっ、と溜息をついて、ありのままの出来事を千尋に話し……千尋は、黙ってそれを聞いていた。 「だから……千尋が心配するような事は、何も、ない。勿論、私が想っているのは、いつも千尋だけだ」 臆面もなく、真顔でこういう科白を言いきるあたり、さすがはハク……。 千尋のほうが恥かしくなって、全身を真っ赤に染めた。 何か言おうにも、のぼせてしまっていて、言葉が上手く出てきてくれない。 ハクは、千尋を見つめながら、優しく微笑む。 千尋の誤解が解けたのを、確信したのだろう。 「ちょっと待っておいで」 部屋の隅に置いてある湯呑に水差しの水を入れ……ふっと息を吐き出す。それだけで、湯呑の水はお湯に変わる。便利な魔法の力。 懐から何処かで見たことのある紙袋を取り出す。 「あっ……」 見覚えのあるその紙袋に、思わず声を上げてしまう。 「千尋?」 「あ……ううん、なんでも……」 その紙袋は……そう、釜爺が煎じた薬を入れたもの。 千尋がじっと見守る中で、ハクは紙袋をあけ、その中身を木匙ですくって湯呑のお湯に溶かす。 ふんわりと甘い香りが部屋に広がって行く。 「ハク……それ……?」 「釜爺に頼んでおいた薬だよ」 「……え、と……何の、お薬? もしかして……ハク、体調崩してるの!?」 思い付いた嫌な考えに、がばっとハクに飛び付くと、ハクは目を丸くした後、くすっと笑う。それはもう嬉しそうに。その薬を受け取った時以上に。 「違うよ。私は大丈夫だ。千尋、近頃、そなたがとても疲れた様子をしていたから……」 千尋の目の前に、ずいっと湯呑を差し出す。 「疲れが取れる薬をね、釜爺に頼んでおいたんだよ」 「え? え……?」 ハクが、釜爺に頼んでいたのは、千尋のための薬だった。 「私、に……」 頷いて、湯呑を千尋に差し出す。 勿論、千尋の表情はぱっと輝く。 ハクが、自分の為に!! 自分の事、気遣ってくれて! それだけで、嬉しくて、嬉しくて……泣きそうにさえなる。 「ハク……ハク、ごめんね。私、やっぱり、ハクが大好きだから!」 そして、千尋こそ、臆面もなくストレートな想いをハクにぶつけるのだ。 目尻に少し、嬉し涙をためて、千尋はハクから受け取った湯呑の中を覗き込む。 やっと膨らみ始めたばかりの、桜の蕾の色。 あの、原料のピンクの砂の甘さに薬草のクセのある香りが混ざっているけれど……全然嫌な匂いじゃない。むしろ、あの砂そのものの匂いよりも、ずっと心が安らぐ気がする。 湯呑に口をつける前にちろり、と、ハクを見上げると、瞳を細めて、優しく微笑んでいる。 千尋も瞳を細めて微笑んで、薬湯を口に運んだ。 味は……味も、不思議なまろみのある甘さだった。 こくん。 一口喉に通す。 身体の奥の方がぽっと暖かくなる。 こくん。 二口目。 身体の奥の温もりが、全身に染みわたって行く。 そして、身体だけでなく、心までふんわりと暖かくさせる。 後は、ゆっくりと喉に流し込んだ。 「苦いかと思ってたけど……美味しい……」 すっかり薬湯を飲み終えた湯呑を置いて、にっこり笑う。 「それに、なんだか、とっても気分がいい……」 頬をピンクに染め、細めた瞳で笑う千尋。 無邪気過ぎるほど無邪気に笑う千尋に、ハクは自分の鼓動が跳ねあがるのを感じた。 千尋が、可愛くて……抱きしめたい欲求に駆られる。 けれど……こんな所で抱きしめたりしたら……自分への自信がなくなりそうで怖い。 「良かった。時折私が釜爺に分けてもらっている薬湯とはまた違うけれど……釜爺も気を効かせて、千尋用に調合してくれたんだね」 釜爺の気遣い。 そう、その薬は、釜爺の、これ以上はない程の気遣い、だった。 つづく |