新婚生活 in 油屋
| その5 |
ハクの手に集まった黒い光はそのうち形を変え、空間に開いた漆黒の空洞への入り口となった。 覗き込めば、中は闇しか、ない。 「大丈夫……反省したら、出してあげるよ」 ハクの凶悪な笑みに、坊はぞぉっと背筋に走る悪寒を感じた。 「ハク……怖い……坊、泣くぞ……泣いちゃうぞ……」 目にうるうるっと、涙が膨らんで行く。 「泣いたって……」 ハクが言いかけたとたんに……大絶叫。 「うわああ〜ん! わああぁぁん!!」 耳のすぐ傍で泣き喚かれたから、大変! ハクは思わず耳を塞いでしまい、黒い空間もすっと閉じる。 ところで……坊が魔力をつけてきたこの頃、坊の鳴声には、特殊な力が宿るようになっていた。 空気を裂く絶叫。 それが、形を持つのだ。 そう、坊の鳴声に、空気を裂くもの……カマイタチが、走る!! 「ぁ……!?」 広いとは言えない室内の空気に、無数の真空の隙間ができ……それが、形あるものを襲う! ハクの服を切り裂き、肌を傷つける。無数の傷跡を、ハクに残そうとする。 カマイタチは、攻撃相手を選びはしない。 そう、カマイタチが襲うのは、ハクばかりでなく……。 「きゃっ!?」 千尋たちにも、だ。 幸い、銭婆のバリアによって、カマイタチはキィンという金属音に近い音とともに、弾かれたけれど。 「千尋……!」 傷だらけの自分よりも、千尋の心配をするハク。 慌てて、千尋を振り向いて……千尋の無事な姿にほっとする。 けれど……すぐに、目つきは険しくなる。 「坊……お仕置きだけにとどめようとしたが……無理のようだね。不可抗力にしろ、千尋に刃を向けるなんて……」 緑の瞳がカッと燃えあがる。 そして、ハクを包む空気が変わる。 空気……いや、ハク自身から立ち上るのは……青い炎。 「一度、痛い目に合うといい……!!」 炎が一際大きくうねり……嗚咽を漏らして目を見開く坊に……。 「そこまでっ!!!」 銭婆の声が一瞬にして、その場を支配した。 元々、銭婆の家だ。彼女の力にこそ、より、力場は従順に従う。 今まさに坊に襲いかかろうとしていた炎は消え……坊をがんじがらめにしていた粘着質の水も消えた。 ハクは、放とうとしていた巨大な力の喪失に、体中の力を失って……その場に膝をついた。 「……銭婆、さま……?」 肩で息をしている。 強大な力を放出するのは、よほど体力を要するらしい。 「困った子たちだねぇ、まったく……」 自分たちにかかっていたバリアを解き、周囲の壊れたものを魔法で修復しつつ、銭婆は千尋の肩をトンと叩く。 「……っ! ハクっ!!」 はっとして、ハクに駆け寄る千尋。 「ハク! どうして!?」 千尋は、身体中切り傷だらけのハクの顔を覗き込み、心配と困惑の混在したした表情を浮かべている。 「……」 ハクは……唇を噛み締めたまま、何も言わない。 「ハク……?」 それどころか、千尋から顔を背けてしまう。 「ハク……」 千尋には、まったく訳がわからない。 「……まぁ、男の意地、だろうねぇ……」 銭婆は、恐怖の為に半ば気を失いかけている坊の前でパチンと指を弾いて、正気を取り戻させ、苦笑する。 「おばぁちゃん?」 「……若いうちは、こういう事もあろうさ。若さゆえの激情は、自分でも手におえない時があるからね」 「銭婆さま……申し訳ありません……」 くっと唇を噛み締めて、ハクは押し殺した声で言う。 「私は……」 「謝らなくてもいいさ。それよりも……ほら、千尋、あれはどうしたんだい?」 「え? え、ああ……!」 銭婆の言葉に、千尋はぱっと顔を上げて、自分たちが元いた場所に駆け寄った。 まだ、銭婆の魔法だけでは完全に修復できていない室内に、穏やかな朝日が挿し込んで来て、壊されたもの、修理されたもの……室内の全てのものの輪郭を、優しく照らし出していた。 「さぁて、坊、あんたも、部屋の掃除を手伝っておくれ。カオナシも頼むよ」 魔法でしか修復できないだろう部分を修復すると、あとは手作業らしい。 散らばった家具類を元の位置に戻し、割れて散らばった陶器や木片を片付ける。 「ハクに千尋……あんた達は……ちょっと出てってくれないかい? 痴話喧嘩をここで始められると、困るからね。これ以上、室内を散らかさないでもらいたいもんだね」 にっと、千尋に……ハクに笑う。 銭婆の言葉の意味を、その優しい気遣いをわからないハクではない。 瞳の力を緩めて、銭婆に向けてかすかに目礼した。 千尋は少しきょとんとしていたけれど……目の前に、大きなバスケットがぽとん、と落ちてきて……なんとなく意味を理解した。 「さぁさ、早くいっとくれ。あんたたち、邪魔だからね」 銭婆に促され……ハクと千尋は外に放り出された。 夜、闇に沈むこの地の朝は……まるで別の場所のように清清しかった。 「ねぇ、ハク……」 千尋が声をかけると、悪戯を叱られそうな子供のように、ハクは肩を竦めて、上目遣いで、千尋を見た。 「どうして、あんなことになったの?」 千尋は、怒ってはいない。 ただただ、ハクの先ほどの激情の理由が知りたいのだ。 普段、冷静過ぎるほどに冷静なハクが、どうしてあんなに激怒していたのかが、知りたい。 そして、体中に傷を作ったハクに……触れてもいいものかどうか、迷っているのだ。 「……千尋……」 「ん……なぁに?」 「……………………っ……いや……」 口を開いて、何か言いかけ……やめる。 そしてまた、口を開く。 「……少し、遠出をしないかい?」 「あ……うん、いいよ」 既に竜姿となったハクに、バスケットを持ったまま、千尋は跨り……空を、泳ぐ。 ふたりきりで、こうして空を飛ぶのは、とても久しぶりかもしれない。 バスケットを落さないように抱え込みながら、千尋は、身体に感じるハクの温もりの心地よさに、瞳を閉ざした。 |