日を追う毎に太陽がより高い位置で南中し、空気が熱気と湿り気を帯びてくる頃。
 はばたき学園中等部の制服が、白い半袖シャツに変わる頃。

 照りつける陽射しの先触れにやってきた鉛色の分厚い雲の下、尽は小走りに家路を急いでいた。


「あいつらに引き止められたせいで降られちゃったよ。夕方までは大丈夫っつてたから傘も持ってこなかったのに。ついてねぇ……」


 気休め半分に頭の上に学生鞄を乗せて、ぶつくさぼやきながら、濡れ始めたばかりで色を濃くしたアスファルトを蹴って走る。


 もう少し。

 住宅街の入口付近にある公園を抜ければ、家まで後少し。

 家に着いたら、まずこの肌にぴったり張り付いた制服を脱いで、風呂に入って……それから、ゆっくり珈琲でも飲もうか。そういや、今日は、姉も帰りが早いはずだ。この間貸したCDを盾にして、ホットケーキでも焼いてもらう。

 結局は弟に弱い姉は、文句を言いながらも、ミルクたっぷり、バターとメイプルシロップのかかった美味しいホットケーキを作ってくれるに違いない。

 尽は想像を膨らませ、幸福に微笑みながら歩を早め、家へと急いだ。


 けれど、公園のフェンス越しにふと、見た。

 遠くにある東屋。

 そこにいるのは……姉と……。


 歩を、止める。

 思わず、立ち止まって……逡巡した。

 頭に載せていた鞄を下ろして、全身が雨に濡れるのも構わずに、目に見えた光景に、戸惑った。



 それは、いつか見た光景だ。



 何年か前に見た光景。




 突然の雨。小学校からの帰り通りかかった公園の東屋に、見知った人影を見かける。それは、姉とその友人。二人がどこかに出かけた帰りなのは、その格好と楽しげな表情から分かった。談笑する二人。それから、急に二人は真剣な表情になる。会話の内容なんて聞こえないけれど、尽にはなんとなくその雰囲気だけでそれがどういう状況なのか読めた。そう、どういう状況なのか分かったけれど……それでも、その二人の間に割り込まずにはいられなかった。無邪気に近寄って、傘を貸す話をして……目覚めたように我に返って東屋を後にした彼と、きょとんとする姉に……少しばかりの罪悪感を感じたのは本当の気持ち。




 なのに、今、尽は、立ちすくむばかりだった。

 あの頃のように、無邪気で身勝手だった子供の頃のように、二人に近づけなかった。

 近づけないままに、立ちすくみ、二人の様子に目が釘付けになり……見る。


 微笑む姉と彼。

 それから、ゆっくりと重なる影。

 柔らかく触れ合った二人の唇は、離れる事を望まぬように、長い間結び合って。


 唇が離れても、見詰め合う。

 頬を染めた姉と、幸せそうに笑う彼。

 幸福な恋人同士。


 空は重々しい曇天で、止め処なく湿っぽい涙のような雨が降り続けていて……けれど、陽射しの照らないこの時でも、そこだけがほんのりと優しい光に包まれているような、そんな光景だった。


 尽はその光景を目の当たりにして、雨がアスファルトを溶かしてコールタールに戻し、そのまま脚を固めてしまったように、そこから動けなかった。また、全身の筋肉が弛緩してしまったかのように、立ちすくむしか出来ない。


 姉と彼は、しばらく会話をした後、ひとつの傘の下に寄り添って、公園を出て行った。


 全身を這う雨が、生暖かい。

 いや、降りつづける雨は、冷たいはずなのに……体に降り落ちたそれらは尽の熱を奪いながら生暖かくなって滴り落ちる。

 頭上に降る雨、顔を流れる雫、頬を這う……暖かい雫。


「分かって、いたのにな。そう、望んでいたのにな……」


 彼と姉が結ばれる事。

 彼なら姉を幸せにしてくれると。

 まだ、己の心を把握しきれていなかった頃、大好きな姉がまったく知らない誰かに奪われるくらいなら、自分の良く知る相手と結ばれて欲しいと。そうすれば、姉は、変わっていかない、自分の大好きな姉のまま自分の傍にいてくれると。呆れるほど馬鹿馬鹿しく、純粋に無邪気な独占欲で姉を煽っていた。

 あの頃の子供過ぎる自分が、憎らしく恨めしい。

「目の当たりにするのは、キツイ……」


 濡れながら、空を振り仰ぐ。


 相変わらずの、曇天。

 重い重い鉛色の空。幾重にも重なり合ったような、雨雲。

 手の届きそうな低い空は、重い体を持て余し、今にも落ちてきそうで……少しずつ水分を降らし続けて、その体を軽くしているのかもしれない。


 水分は、流した方がいい。

 きっと、重い心が、少しは軽くなる。

 頬を流れる、生暖かいそれが唇を濡らして……尽は、きつく唇を引き結んだ。





 雨に濡れ、重い体を引きずって家に帰り着く。

 体が重い。

 重くて、仕方ない。
 目の前が揺れる気がする。酩酊しているように。

 やっと、扉に手をかける。

 けれど、ドアを開ける力が入らない。

 雨で手が滑っているのだろうか?

 尽はぼんやり考える。
 それとも、鍵がかかっているのだろうか?
 合鍵はもっていただろうか、分からない。
 でも、家の中には姉がいる。
 自分を迎えてくれる大好きな姉がいる。

 必死で腕を伸ばし、インターフォンを鳴らし、そのままドアにもたれかかる。

 木製のドアが妙にひんやり感じる。

「どちら様ぁ?」


 聞きなれた声が、耳の中で反響する。

 心地いい声を求めて、声を出そうとするけれど喉が焼け付いて、からからに干からびているように、声は出ない。

 こんなに、濡れているのに、なんで水分が足りないんだろう?

 また、ぼんやり思った。

「誰?」 


 少し不審そうな姉の声と、ゆっくり開くドア。


 ああ、やっと。

 やっと、姉の顔が見られる。

 安堵した。

 ひどく安堵して、尽は力を振り絞って顔を上げる。

 姉が、いる。

 誰より、何より、大好きで、仕方なくて……それが、恋だと理解したのはごく最近だけれど。

「尽?」


 困惑した呼びかけに、尽は微笑む。

 けれど、それは、微笑というより……かすかに唇を緩めるだけで精一杯だったのかもしれない。

 開いたドアから家の中に、姉の下に踏み出した途端に、視界が歪んだ。


「尽!? 尽、どうしたの!?」


 傾いでいく体、薄くなる意識。

 けれど、自分の体に姉の体の熱を感じて、尽は呟いた。

「ねえちゃん……好きなんだ……」


 想いは、届くはずがないと分かりきっていても、それでも……。


「尽ぃ!? ……っ! すごい、熱! 尽、しっかりして……!」


 近くに姉の体の熱を感じ、遠くに姉の声を聞く。

 最後の最後に、尽は、腕の中の姉を、できる限りの力で抱きしめ、完全に意識を失った。




 高熱に浮かされて、尽は夢の世界を彷徨う。
 到底ありえないからこそ……夢。

 そこにいる尽は、ひとりの男で。

 姉は、ただの女で。
 二人は、クラスメートとして出会って、恋人となり……二人の未来を約束し、そして……共に命費えるその時まで互いに寄り添いあう。

 尽自身、いかほどの時間そうして夢の中を彷徨っていたのか判然としなかったけれど、短い時間の中で、尽は、ありえない自分の望通りの人生を、夢見て、終えた。


 夢の世界は、尽の熱が下がると共に崩壊し、目の前に現実の姿を顕とする。





 尽をずっと看病していたのか、そのベットに頭を預けて眠る女性が……姉だと、血を別けた肉親だと認め、苦く唇を歪めた。

 雨漏りをしているわけでないのに、頬に生暖かい雨粒が流れるのを感じる。


 そう、雨粒だと、尽は己を納得させる。


 塩辛い雨粒が唇を濡らし、尽は姉の髪をかきあげて、そこに現れた白い額に、ゆっくりと雨粒に濡れた唇を押し付けた。


 雨が、地上の汚れを洗い流すように、涙が、彼女への未練を洗い流してくれるといいと、思う。

 けれど、どれくらい泣けば、姉へのこの想いを洗い流せるのか……尽には、分からなかった。

 もっと、ずっと……降って、降り続いて…………いっそ、姉を愛した記憶さえ、流れ落ちてしまえばいいのに、と……そう思う自分に、尽は自嘲した。


「きっと、雨は、永遠に降りつづけるんだ……」


 そうしなければ、この想いでできた心の中の雨雲は重過ぎて、支えきれなくなるから。





 姉を、愛してしまった弟。
 雨は、尽の心の中で、永遠に降りつづけるかもしれない……。





END




--BACK--





<言い訳とか>

ひたすら、ブルーなお話で。
それでなくても、梅雨時で鬱陶しい時にねぇ(笑)。
題名も、まんま雨、だしねぇ。

えーと、もしかして、初書きの、尽が片想いで終わるお話かしら?
……基本に戻ってみました。

久しぶりに、第三者視点で書いたら、なんか新鮮でした。
最近、一人称ばかりだものなー。