こっそり・・・薬屋のひとりごとSS

『揺らぎ』


※不幸な事故で羅門が亡くなり、葬儀が終わった後、猫猫は・・・。

 葬儀が終わって、医局の寮には戻らずに、花街の裏通りにある家で呆然と座り込む。
 猫猫が育ち、義父と過ごしたあばら家だ。
 妓楼の小姐たちは猫猫を一人にすることを心配していたが、猫猫は普段通りの表情をして「少しだけ片付けたいから」と、家に戻ってきた。超迂は緑青館に預けてある。
 物心つく前から、この家で義父と暮らして来た。
 豊かな暮らしではないけれど、充実していた。幸せ、と言っても良かったかもしれない。
 羅門は、花街で生まれた猫猫に妓女になる以外の道を作るため、薬師の技を教えてくれた。猫猫が薬に興味を持てたのは、羅門の導き方が上手かったからに他ならない。
 その結果として、今の猫猫がある。
 誰よりも尊敬していた。敬愛していた。感謝していた。
 基本的に、人と関わる事が苦手で、人に甘えるのが苦手で・・・猫猫が唯一絶対に安心して甘えられる存在が羅門だった。
 もう親を恋しがる年齢ではないけれど、それでも・・・。
「・・・もっと、ずっと・・・教えて欲しい事はあったのに」
 呆然と呟いた。
 羅門が失われてから数日、周囲には冷静に対応しているように見えていたかもしれない。
 普段通りの冷静な態度と言葉遣いと、極力表情を表さない鉄面皮と。
 けれど、彼女の事をよく知る人間からすれば、その姿がどれほど感情を抑え込んでいるか、分かってしまう。
 分かった結果として、小姐たちは心配しながらも猫猫をひとりにしてくれた。
 猫猫が、ひとりでないと泣けないと、そう考えたからだ。
 けれど、ひとりでも、泣けなかった。
 ただ、糸の切れた人形のように力なく座り込み、定まらない焦点を部屋の隅の薬研に向けて、そこに在りし日の羅門の面影を見続ける・・・それしかできなかった。
 生者との別れはいつか訪れるものだ、と理解できている。当然だ。薬師として、花街で育った人間として、子供の頃から他人の生死は見続けて来た。
 けれど、それが、世の中で一番大切だと思っていた存在で、その別れがあまりに突然過ぎて、理解に感情が追いついていない。
 感情も、思考も完全に停止していた。先に進むことを拒むように。
部屋が暗くなっても、灯りもつけずに呆然自失で座り込み続ける。時間が止まったように。
 がらり、と、戸が開く音がした。
 外の風が室内に流れ込み、誰かが入って来た。
 ゆっくり視線を上げると、よく知った貌があった。天上の美貌を持つ男だった。
 反射反応で、虚ろな目を男に向ける。
 男は、普段あまり見ないような表情をしていたが・・・猫猫はそれを認識できなかった。
 どうしてここに来るのか、と、少しだけ煩わしい感情が働いただけだった。
 何も、考えられない。
 なのに。
 彼の男の手が、言葉なく頭に触れて来た。
 暖かかさが、じわりと広がった。
「・・・おまえの小姐たちに、ひとりにしておいてやってくれと言われたが・・・大丈夫か?」
 甘い声色が、不安気に揺れていた。
 初めて見る、抜け殻のような猫猫の様子に異常を感じているのだろう。
 猫猫は少しだけ眉を動かした。
 出会った頃は、この男のこの声が、この姿が、不快だった。作り物めいていて、不自然で、気持ち悪かった。だが、男の本質を識ってからは、その声も姿も、男の一部なのだと受け入れられるようになっていた。ただ、やはり・・・この男が己の容貌を利用するような態度を見せる度、嫌悪感があったのは確かだ。
 猫猫の感情が戻ってくる。
 その眼差しが、いつも通りの色を取り戻す。
 潰れた蛙を見るような色合いになる。
「・・・ここは、あなたのような方が来る場所ではありません」
 かすれた声で、そう、言った。
 男の・・・かつては壬氏と呼ばれていた男の唇がかすかにゆるんだ。
 猫猫の上に置かれた手が、そっと降りて来て、彼女の頬を包む。
「ここが、お前の育った家なのだな」
 お世辞にも、住み心地がいいようには見えないだろう。
 壁一面に古びた薬棚が並び、天井各所からは生薬が吊るされ、部屋の半分は調剤の器具や薬箱で埋められている。掃除、整頓はされていてるため清潔ではあるが、部屋の片隅に菰と薄い布団があるだけの、粗末な家だ。
 この男には生涯縁のない貧しい佇まいだが、猫猫が育ち、暮らし、養父から様々を学んだ家だ。
「お帰りください」
 治安がいいとは言えないこの場所に、こんな高貴な方がいる事が知れれば、何が起こるか分からない。おそらく、家の外には馬閃なりが待機しているだろうが、それでも好ましい事ではない。
 猫猫の頭が少しずつ回り始めた。平常を取り戻そうと動き出した。
 なのに、男は美しい柳眉を潜めて、猫猫の顔を伺うように見つめてくる。
「・・・平気か?」
 何を言っているのだろう、この男は。
 今、自分はひとりでいたいのだ。ひとり、義父との思い出を整理したい。だから、この男がいるのは邪魔でしかない。
 そう、口に出す前に、生暖かい雫が唇を潤した。
 壬氏の指が、眦を掬った。
「俺が、ここにいたいだけだ。お前が気にすることはない」
 普段通りの口調に、幾ばくかの労わりの感情が籠っていた。
 男とのほぼいつも通りのやり取りに刺激されて、猫猫の停止していた思考と感情が動き出した。
 動き出して、現状を明確に把握して・・・養父が完全に失われたことを現実として実感してしまい、感情が膨れ上がった。
 気が付けば、次々に涙が溢れ出して、嗚咽が漏れて・・・抱き寄せられた男の腕にすがっていた。
 今度は感情が胸中で渦巻きだした。
 悲しい、悲しい、悲しい、悲しい・・・。
 ただ、悲痛な思いが胸を頭を駆け巡って、感情が決壊する。その奔流に巻き込まれて、抗えないままに・・・号泣した。
 感情の薄い猫猫がこんなに泣くのは、きっと、何も分からない赤子の頃以来だっただろう。
 頭の片隅の冷静な部分が荒れ狂う感情を押しとどめようとはしたが、男の腕の暖かさが、感情の箍を緩めてしまう。
・・・その後はただ、暖かな他人の腕にすがって、猫猫は泣き続けた。

 日が昇る前に目覚めるのが猫猫の日課だ。
 その日も、いつもの時間に目覚めた。
 目覚めてすぐ、胸の中にぽかんと虚ろに空いた喪失感を感じて・・・養父羅門が失われたことを、実感した。
 そして・・・。
「・・・お目覚めか」
 甘露の声色に顔を上げ、猫猫は自分が壬氏の腕の中で眠っている事を知った。
 気だるげな美貌の主が、唇にかすかに笑みを浮かべて、猫猫を見下ろしていた。
「・・・? ・・・! ・・・・!?」
 言葉なく、顔を上げ、跳ね起き・・・まずは自分の着衣の乱れを確認してしまい・・・頭の上から盛大なため息を聞く事になる。
「何も、していない」
 呆れ声に現に引き戻され、猫猫は昨日の事を思い出す。そして、びしっと背を伸ばし、深々と壬氏に頭を下げた。
「昨日は、ありがとうございました」
 号泣した記憶まではあったが、その後の記憶はなかった。
 おそらく、泣き疲れてそのまま眠ってしまったのだろう・・・壬氏の腕の中で。
 とんでもない事である。
 高貴なお方の腕を借り、袖を盛大に濡らし、さらには一晩中枕代わりに使ってしまうとは。
「申し訳ございませんでした」
 さすがに、これはまずい。
 近年、このお方とは公私に渡り色々あったわけだが、それでも、このお方の立場を考えれば、不敬を通り越した程の行為をしてしまった。
基本的にお優しいこのお方でも何かしらの沙汰を言い渡すに違いない。
それならば、やはり。
「・・・私は、服毒の刑が良いです」
 口にして、また、盛大かつ深いため息を聞く事になる。
 猫猫のひとっ飛びの明後日な思考にはすっかり慣れている壬氏ではあるが、そのたびに呆れるのは仕方がない事だ。
「借りだと思ってくれればいい」
「・・・寛大すぎませんか?」
「寛大だと思うか?」
 にいっと笑う壬氏に、猫猫の背筋に冷たいものが走り、反射的に壬氏から飛びすさって離れてしまう。
「できれば、お前自身の意思で借りを返してくれると嬉しいのだがな。・・・羅門の手前、俺はお前に強要はできんよ」
 何を言っているのだ、この男は。
 猫猫は、干からびたミミズを見る目で壬氏を見てしまう。
 いつも通りのふたりのやり取りだ。
 そう、猫猫も、いつも通りだ。
 壬氏は麗しく微笑んだ。そこらに人がいれば、老若男女問わず見惚れ、年寄りならば、心の臓が止まってしまうかのような美しさだ。
 猫猫の目が、干からびた後、水たまりでふやけてぐずぐずになったミミズを見るそれになる。
「さて、俺は今日も仕事がある。・・・医局の仕事は今日まで休みだったな。ゆっくりしてくればいい」
 壬氏は屋外で待機をしていた馬閃に声を掛け、覆面を被ると家を出ていった。
 その時の壬氏の微笑みは、心からのもので・・・猫猫は、眼差しを緩めて、頭を下げた。
「ありがとうございます」
 心から、そう感じた。

 誰かといると泣けなかった。
 けれど、ひとりでいても泣けなかった。
 なのに、何故、あの男の腕の中では号泣できたのか。
 その理由を考える事は、人は何のために生まれてきたのか、という疑問の回答を導き出すのに近い事だと思って・・・考える事を放棄した。
 そうしないと、己が考え得る最高の面倒事が我が身に降りかかるだろう事に、本能的に気づいたからかもしれない。
(面倒は、ごめんだ)
 猫猫は、思考を放棄する。
 けれど、今回の件へのお礼はしないといけない、と律儀に考えてみるのだった。
 もちろん、そこには純粋な感謝によるものではなかったが。
「恩にきせられて、また何か厄介事を強要されては敵わないしな」
 どこまでも猫猫らしかった。  


個人的にはつづく