<オリジナル話・8>
Rio【3】
心が通じても。
体を重ねても。
時々不器用に好きだと云われても。
それでも・・・それだから、不安が広がる。
生まれて初めて心の中に大きく広がった好きという感情が、そのまま不安の色に染まる。生まれて初めて、そんな大きな不安を抱え込むようになる。
100回、1000回好きだと云われても。
それが心からの言葉だと分かっても。
もっと、もっと、もっと、もっと、彼から与えられるものが欲しくなる。
月成は、自分のそんな心の有り様を怖いと思った。
そんな恋に溺れきれるほど、彼女は愚かではなかった。
そんな恋を心のままに実行したらどうなるのか、行き着く先が朧に垣間見えてしまうのだ。
そのきっかけは、いくつかあった。
たとえば、彼女が会いたいといった時、どうしても外せない用があると断られた時。
たとえば、メールを送って、その返信に半日かかった時。
たとえば、久しぶりに会えたのに、携帯の着信に出てそのまましばらく放置された時。
どれも、仕方のない事態だった。分かっている。
夏目にとって大切な他の人間が、彼の助けを求めていたり、彼に相談を持ちかけたり。そんなこと、付き合って二年近く経ったこれまで、いくらでもあった。
その状態に、我慢できなくなってきたのは、月成自身。月成自身が変わってしまったのだ。
どこまでも、夏目に対して貪欲になってしまった。
夏目の親友達も、なにかというと夏目の廻りに集まって、彼と月成の時間の邪魔をする。夏目も彼らを邪険にしない。だから、月成は彼らをますます憎むようになった。
あからさまにわざと月成の邪魔をしにくる、百合子というゲイの少年が、特にカンに触った。夏目をそういう対象としては見ていないようだが、それでも、わざとらしく夏目に甘えるような態度をとって、夏目もいかにもかわいい弟をあやすように接するのに、殊の外苛立ちを覚えさせられた。
多飛本は時々夏目との外出に同行する事があった。図書館や本屋、あるいは何かしらのシンポジウムに出向く時だ。そういう時は、逆に多飛本と夏目に月成がついていくような雰囲気で、月成は面白くなかった。第一、多飛本という男は、月成を見下しているようなそぶりを見せる。月成だって、それなりの偏差値を誇る女子校での成績は良い方であるけれど、彼らには及ばないのだと実感させられて悔しかった。
安羅と時屋、白熊という男とは頻繁に会う事はなかったが、彼らは月成に対して友好的ではあった。夏目の事で相談に乗ってくれる事すらある。けれど、それでも、事あるごとに夏目に連絡を入れてきて、月成との時間を邪魔するから、憎む対象であるには違いない。
夏目に恋するあまり、夏目しか目に入らなくなり、どんどん自分の心が狭くなっていく。
時々実感はするけれど、それを止める術は見いだせずにいた。
・・・そして、冬の終わり・・・春がまだ始まる前。
夏目はその年3年生になる。受験生だ。目指すのはTK大の建築学科だという。決して広い門ではないそこに受かる為に、成績優秀な夏目だとて、更なる努力が要される事だろう。
夏目自身からそう聞いていた月成もある程度覚悟は決めていた。これまで以上に会える時間が減るのだと。
けれど、今まで予備校に通ったことのない夏目も、対策講座が催される春と夏の短期集中講座にだけは出るのだという。その講座が開かれるのは、夏目の住むK市ではなく、月成の住むY市。少しくらいは会えるかも知れないと、月成に期待はあったのであるが・・・。
春の短期集中講座期間中、毎日夏目からのメールはあったけれど、一向に会いたい、とか、会えないか、の誘いは来なかった。
よほど予備校の授業が難しく、夏目でも必死にならないといけない程なのかと思って、月成もわがままは抑えた。月成から会いたいと云うと、誰かの為の用ならともかく、自分の用事程度なら簡単に取りやめて会いに来てくれる事を知っていたからだ。夏目の勉強の時間を減らしたくはなかった。
そう思いながらも、もしかしたら会えるかも知れない、の可能性を求めて、夏目の通う予備校近くにも何度か出かけた。会えるだけでよかった。いや、ひと目彼の姿が見られるだけで良かった。
それなのに、巡り合わせが彼女に意地悪をする。
予備校の前を通りかかった。ちょうどお昼の休講時間なのか、大勢の生徒達がざわざわと校舎を出入りしていた。
用もないのに、月成はゆっくりと歩みながら、その人ゴミの中に夏目の姿を探した。
もしも会ったら、偶然を装ってお昼に誘えればいい。
夏目の事だから、昼食ごときで月成を予備校傍まで呼び寄せるのは申し訳ないと考えて、そういう誘いを一度もしてこないのだろう。むしろ月成はそういう夏目のわがままをたまには聞いてみたいと思うのに。そうやって誘われればきっと、喜んで応じるのに、毎日だって通うのに。
年を経てますます美しくなってきている月成の容姿は、ひどく目立った。化粧などしていなくても、月成は美しかった。だから、予備校から出てくる人間は、男女問わず彼女に視線を送り、中には見とれて立ち尽くす者すらいた。
けれど、月成自身は自分の容姿に対して、さしたる自覚はなかった。いや、周囲から確かにほめ言葉をもらうことはよくあったし、客観的に判断してくれる、信頼に足る斎にもよく云ってもらっていた。けれど、容姿だけで、夏目が自分を好きでいてくれるとは思っていなかったから、月成にとって、それはあまり関係の無いことだったのだ。夏目に好意を持ってもらえるように、清潔で整った格好はするけれど、それだけだ。
月成の基準は全て夏目に合わせてあったのだから、仕方ない。
ゆっくり歩く月成が夏目を見つけたのはしばらくしてから。
予備校の2階のロビーのような広い空間の窓に、彼の顔を見つけた。長身の夏目は割合目立つのだ。
2階の窓を見上げて、予備校の中に入っていくべきかどうか、月成はしばらく躊躇した。予備校にまで押しかける女だと、夏目に迷惑がられるのが怖かったから。
だから、せめて、夏目が自分の存在に気づいてくれないかと願ったけれど、それは叶わず、もたもたしている月成の目の前で。
「・・・っ!」
夏目が駆け寄ってきた女の子と親しげにしゃべり始めたのだ。
黒く長い髪を後ろでひとつに束ねた、メガネの女の子。服装もかっちりしていて、とても頭が良さそうに見える。国立理系の夏目と同じクラスなのだろうか、なるほどと思える見た目だった。
女友達も多い夏目だから、彼女もそのひとりなのだと思おうと必死になった月成だけれど、やけになれなれしいその女の子と、今まで見たことがないくらいひどく嬉しそうにしゃべる夏目と。
ふたりの姿が、遠い出来事のように感じられた。
そのうち、ふたりの姿は一緒に窓の前から消えて・・・月成は、泣きたい気持ちを堪えながら、家に帰った。
頭の中では理解している。
誰にでも同じように接する夏目は、誰からも好かれる。だから、向こうから勝手に夏目に好意を寄せてくる女の子もたくさんいる。
夏目が、月成という彼女がいながら浮気できるような男ではないという事は、十分に分かっているけれど、疑ってはいけないと思うけれど。
月成は、自分に自信がなかったのだ。自分が夏目に想われるべき存在である自信が。
夏目にはもっと、頭が良く見た目も中身も真面目な女の子の方が似合うのではないか、などと考えてしまう。その点、月成は自分の派手に見えてしまう見た目が嫌だった。夏目はかわいいと云ってくれるけれど、それでも。
その日、夏目から来たメールに返信できなかった。いつも通り、たわいない内容だったけれど・・・最初本文を見ることさえ、躊躇った。いつもはすぐに返信する月成からのメールがない事を不審に思ったらしい夏目が、翌朝早朝に心配するメールをくれたけれど・・・それにも、返信できなかった。
苦しかった。苦しくて、息絶えそうだと思った。
夏目は何も悪くない。悪いのは、たぶん、自分の心なのだと理解できてはいたけれど、この苦しい感情を何とかする事はできなかった。
月成はその日から体調を崩して数日間ベッドの住人となる。
夏目からのメールには、何も返信できずにいた。
翌日の夕方に夏目が月成の家にやってきた。
2年間のつきあいで何度か遊びに来たことがあり、月成の家族も礼儀正しい夏目を、彼女のボーイフレンドとして公認し、気に入っていた。
仕事で忙しい父親と自分の仕事を持つ母親が、そろって家にいる事が少ない月成家には、通いのお手伝いさんがいる。月成の幼い頃からこの家にいる、気の良い初老の女性Nは夏目を月成の部屋まで案内し、飲み物だけ持ってくる事を伝えるとすぐに下がっていった。
「斎さんに教えてもらった。」
やや憤りを含んだ夏目の声に、ベッドからやっと上半身を起こした月成は、少しだけ目を見張った。
普段から夏目は喜怒哀楽、特に怒りをあからさまに表現しないものだから、苛立っている所もほぼ見たことがなかったからだ。しかも、それを自分に対して向けられたのは、初めてだった。
「体調が悪いなら悪いと、何故連絡してくれないんだ。メールも打てないほどひどかったのか? ・・・昨日から、心配でたまらなかったんだ。」
言い終わってから、力が抜けたしたように、その場に座り込み、夏目はため息をつく。
「ごめん。病人のきみに当たるのは間違っていた。・・・だめだな、ぼくは。」
心から、心配してくれていたのだ。苛立つくらいに、彼女を思ってくれていたのだ。
月成は嬉しくなる。泣きたくなる。
彼と離れて、彼の事を考えている時の苦しさが、あっさりと消えていく。
「貧血だって? 点滴打ったって聞いたけど・・・ひどいの?」
今度は心底心配そうに、月成の顔をのぞき込んでくる。真っ直ぐに、彼女の目を見つめてくる。
夏目の目が、眼差しが、月成は好きだった。彼の感情全てを語るそれを、独り占めしたいといつも思っていた。
「・・・大丈夫。食欲なくて、身動きとりたくないだけ。水分は採れるし・・・たぶん、すぐに良くなるから。」
夏目の顔を見て、声を聞いて、そう思った。
「そう・・・、」
ほっとして、微笑む夏目の柔らかな表情が近づいてきて、月成の鼓動が踊る。
軽く、キスされた。
それだけで、幸せに満たされるのが不思議だった。
夏目の手がリオの頬に添えられ、真摯な眼差しで見つめられる。
「リオ・・・、きみはもう少しぼくにわがままを云ってくれたっていいんだよ。」
「・・・え?」
「無理に抑えてるのが、すぐに分かる。ぼくは、わがままを云うきみだって好きだよ。」
何も云っていないのに、分かってしまうのだろうか。
わがままを云いたい。云ってしまいたい。
夏目に自分だけのものでいて欲しいと、他の誰にも関わらず自分だけの人であって欲しいと、自分のことだけ考えて、自分の声だけ聞いて、その眼差しをいつも自分にだけ向けていて欲しいと。
・・・云えるわけがなかった。
彼を困らせたくない。自分のせいで彼の彼らしさを奪いたくない。
夏目は、彼の周りの人間から慕われるからこそ彼たり得ているのだ。彼と周りの人間を切り離すなんて、あり得ない事だった。
それに、それを云ってしまう事で彼に嫌われるのが、何より嫌だったのだ。
泣き出しそうになる。
夏目が傍にいて優しく自分を気遣ってくれる幸福と、彼を独占したがる醜い心がもたらす苦しみ。
ふたつがせめぎ合い、どうしようもなくなる。
吐き気がして、思わず口元を手で覆う。
「リオ?」
「だ、じょぶ・・・、」
体を支えてくれた夏目に、そう云うだけで精一杯。
彼の体のぬくもりに、こんな時も感じてしまうときめきが、煩わしくさえ思えた。
「ねえ、リオ・・・、」
優しい、不自然すぎるくらいに優しい夏目の口調に顔を上げる。
「本当に、ただの貧血?」
なぜ、こういう事を云うのだろう。確かに、原因は心因性のものではあるけれど、この状態は貧血には違いない。
「もしかして・・・いや、ぼくの変な勘ぐりだったらすまないけど、」
どこか動揺を抑えている口調にも思えた。そういう風に前置きする。煮え切らない夏目の口調も、珍しい。
「その、先月も・・・したよね?」
何を? と、問い返しそうになって、赤くなった夏目の顔を見てはっとする。
もちろん、それはない。
けれど、月成はすぐには否定しなかった。
否定せず、頭の中で色々考えた。
もしも、月成が妊娠していたとして・・・夏目はどうするのだろうと。
大学受験を一年後に控えた彼が、月成の妊娠をどう考えるのだろうかと。
彼の性格的に・・・堕ろす、なんてあり得ない。
彼の母も17才の時に彼を身ごもった。もちろん、予定などしていない子どもだった。その後の詳細は、聞かなくても分かる。彼の母である人も様々な葛藤の末に、それでも、彼を生むと決め、父親がいないも同然の生活の中で、苦労しながら彼を育てた。
それに、彼とその母は産婦人科医である百合子の家にはお世話になっていて、子どもの頃から今でも懇意にしている。
彼の生い立ち、倫理観を含め、できてしまった子を堕ろすように考えるなんて、あり得ない事なのだ。
けれど・・・また、彼の思いやり深い性格も月成は知っている。
16才の月成が子どもを身ごもり、産んだ結果の苦労を自分の母の苦労に重ね合わせて、それを勧めるとも思えない。
ただ、確実に分かるのは、夏目は、自分のことより月成を第一に考え、月成の言葉次第で、己の身の振り方も決めてしまうだろうという事。
たとえば、月成が産みたいと言えば、大学進学もあきらめて、月成とその子のためにずっと傍に居てくれるに違いない。そういう人だ。
ずっと、自分だけの傍にいてくれる。
それは甘い誘惑のキーワードだった。
『子どもができた。産みたい。』
けれど・・・たとえ、たとえそれが事実だったとしても、どうしてそういう事が云えるだろう。彼の人生を狂わせることが口に出来るだろう。
罪深い内容を考えてしまう自分の醜さが、また嫌になる。嫌悪を感じる。
月成は、頭を振った。
声を出したとたんに、涙が吹きこぼれそうな気がした。
「そうか・・・なら、良かった。きみに、負担をかけられないから。」
夏目という男の場合、これが、逃げ口上ではないからたちが悪いのだ。真実月成を気遣った言葉だ。こんな男だから、誰からも慕われるのだ。こんな男だから、月成は狂おしいくらいに恋しているのだ。
優しすぎる夏目の言葉は、月成を傷つける。自分のことばかりを考えている月成に突き刺さる。
我慢していた涙があふれた。
これ以上、止めようがなかった。
「どうした、気分が悪い? リオ? Nさん呼んでくるか?」
月成は首を振った。
「・・・がう、ちがう・・・、」
おかしいくらい、頭の中は混乱している。
月成は、夏目のぬくもりを求めた。
彼に甘えている自覚はあった。けれど、今はもう少しだけ、甘えていたかった。
すがりつく月成を、夏目は理由も聞かずに抱きしめ続けた。彼女の涙が止まるまで。
それから2日、月成は夢うつつをさまよった。
夏目には当たり障りのない内容のメールを一日一度送り、安心させた。
斎が毎日見舞いに訪れて、異様な様子の月成を色々気遣ってくれたが、月成は相談できずにいた。斎もまた、しつこく聞かずにおいてくれて、ありがたかった。
これまで、何でも相談してきた・・・それこそ、夏目との初めての時の事ですら相談できた斎なのに、今回ばかりは何も言う気になれなかった。それほど、月成の心は病んでいた。
病んだ心を抱えて、月成は考えた。
考えて、考えて・・・自分で、結論を出した。
それが、果たして正しい道だったのかは月成には分からない。きっと、今から何年も経ったずっと先に、その結論が導き出されるのかもしれない、と漠然と思っていた。
斎に誘われてどうにか外出もできるようになってきていた週末、春休み最後の日の前の夜、月成はある場所から・・・夏目に電話を掛けた。
実際の声を聞くのは、あの日、月成の見舞いに訪れてくれた日以来だった。夏目が連絡無精なわけではない。月成が声が出ないとの理由をつけて、声を聞くことを拒んだのだ。
夏目の声、口調。相変わらず穏やかで、落ち着いていて、聞いているだけで、幸せになる。大好きな夏目の声。けれど・・・月成の事をとても心配してくれるその言葉。その暖かな気持ちが・・・痛かった。
「今、港にいるの。」
『こんな時間に?』
「・・・ねえ、夏目くん、会いたい。」
『リオ?』
「会いたいの。今すぐに。会いたい・・・。」
『どうしたんだ、一体。』
夏目の声が不安に震えるのを感じ取り、月成は小さく笑った。これが最後のわがままだと、思った。
「夏目くん、大好き・・・、」
月成は電話を切った。
夏目が何をしていようが、どこにいようが、必ず自分の元に駆けつけてくれる自信があった。そういう人なのだと、分かっている。
そこは、何度も夏目とデートした公園だった。海風が常に渡る広い公園で、ふたりは幸せに笑い合った。
1度、2度、時間をおかずに夏目からの着信があった。3度目の着信の途中で、携帯の電源を落として、月成は以前夏目と座ったこともある、ベンチに腰掛け、暗い海を見渡した。
K市からY市のこの公園まで、電車に乗りバスに乗ってどれくらい時間がかかるだろうか。
その時間の間に、夏目はどんな顔をしているのだろうか。
想像すると、笑えてきた。夏目を、ではない。自分を笑うのだ。
自分の愚かさを、声を出して笑った。
狂おしいくらいの恋をしている自覚がある。
けれど、相手と自分の恋の温度差を感じるばかりで、それが笑いを誘う。
深く暖かく愛してくれている夏目に対して、月成の愛はただひたすら燃え上がる。燃えて己を焦がし尽くし・・・彼女自身の自制の心がそれを夏目へと燃え移らせない。いや、そもそも、彼女がその熱を夏目へと伝えたって、燃え上がる事を知らない夏目の愛は、変わらないのだろう。
きっと、この時も、心配して焦ってはいるだろうが冷静に状況判断をして、斎なりと連絡を取りながらここに向かっている事が想像できてしまうのだ。
ぼんやり、ただぼんやりと海を見つめる。対岸に見える遊園地やホテルなどの明かりが、真っ黒な海面に反射してきらきらと瞬いて見える。瞬きのずっと向こう、水平線からつながる星空を見上げた。水面の瞬きよりも、静かな空。晴れているのに、星の瞬きが薄くしか見えない星空だ。子どもの頃、家族旅行で出かけた北欧の国の賑やかな星空に比べて、なんてつまらないのだろう。
それでも。
それは、夏目とも見上げたことのある星空だ。旅先の夜道で、星座を教えてもらいながら歩いた。星座にまつわる神話は月成の方がよく知っていた。この季節ならば、春の大三角形が見えるはずだが、都会の空は夏目と旅した田舎の空よりも星たちの瞬きは静かで、明るく輝く一等星を見つけるのも困難だった。
指先で、星座の形をなぞってみる。春の大三角形は、なんとか判別できるスピカ、アークトゥルス・・・けれど、デネボラはよくわからなかったから、適当な位置で三角形を結んだ。スピカはおとめ座の星。そこの位置からおとめ座の形を見つけようとするけれど、それも難しい。
月成は、そこで星座観測をあきらめた。
繁華街に近いこの公園は、こんな時間にも人気が絶えない。若い女の子がひとりでいても良い場所じゃないのは分かっているし、普段なら絶対にこんな事はしない月成だけれど、今日は特別だった。
繁華街が賑わう序の口の時間のおかげか、何度か声をかけられたが「人を待っているの。」それだけで引いていって、煩わしい目に合わずに助かった。けれどもっと遅い時間になれば、それだけではすまないかもしれない。
夏目に電話してからどれくらいが経っただろうか。時計を持ってきていない。携帯の電源も落としっぱなしだから分からない。
1時間は経っていないかも知れない。けれど、30分は経っているだろうか。
視界の片隅に写った恋人同士に目をやった。
海の手前の手摺りにもたれかかって、身を寄せ合って、何を話しているのだろう。きっと、甘いささやき。時折、何がおかしいのか顔を見合わせてクスクス笑った。
何も考えずに、ただ夏目の傍にいたいだけなら、彼らのように月成も笑えたのだろう。けれど、月成にはそれはできなかった。
月成の一番の望みは夏目の傍にずっと居ること。夏目の愛情が変わらない限り、それは続けられる望みだった。きっと、とても簡単な望みだった。月成が夏目のように常に穏やかで広い心を持っていられるなら、もしかすると一生叶う望みだったかもしれない。
それを、壊そうとしているのは、月成自身。
今の月成の心では、その望みは叶わない。
病んでしまった彼女の心では、これから互いを貶めあう事しかできない。
そうなる前に、なんとかしないといけなかった。
自分が壊れきる前に。なにより、大好きな夏目を壊してしまわないように。
・・・その前に、ふたりの関係を壊す。
月成は、再び海に視線をやった。そういえば、この公園から夜の海を見るのは初めてだと気づいた。
遠くから、声が聞こえてきたのはその時だった。
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つづく |