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<オリジナル話・3>

恋情【1】


 寮の表門は夜の8時には門扉を閉ざす。高級住宅街ゆえの防犯対策である。とはいえ、ここに暮らすのは深夜帰り、朝帰りが当たり前の大学生たちであるため、そういった者は門扉が閉まった後の時間は、鍵のついた裏口から出入りする。その鍵と玄関の鍵は基本的に寮生しか持っていない。
 そう、だから、寮に入り浸っている半ば寮の住人と云って良い百合子でさえ例外なく。・・・・・・というか、百合子も以前は持っていたのだが、鳥貝が寮生になった事によって取り上げられた、と、云った方が正しいのだが。百合子がこれまで持っていたものは、元々は夏目のものだったのだ。裏口の鍵も扉の鍵も古い洋館ならではのアンティークなもので、合鍵を作るのにはそれなりの費用がかかるのである。
 もっとも、他の寮生によれば、女性である鳥貝の身の危険は守られなければならない。だから、戸締りはこれまで以上に厳重にすべきだ。その鳥貝の身の危険を一番脅かす存在が百合子である。よって、百合子が勝手に寮に出入りできないようにするのも、鳥貝の身辺保護のためなのだ、という理屈が成立していた。
 ただし。
 鳥貝が自ら招き入れるのであれば、誰も文句は云わない、とも付け加えられたが。
 素直な鳥貝は、それが単に館の出入りに関する事だけの意味に受け取ったが、勿論、それだけの意味ではない。

 さて、入学式から一ヵ月、四苦八苦しながらも新生活、つまりは大学生活、寮生活、アルバイト、に慣れつつある鳥貝が、最初の長期休暇を迎えたGWである。とはいえ、休みに入るのは、講義だけであり、寮生活は変わらず続くし、アルバイトの方は講義の代わりとばかりにGWの休みの日に詰め込まれた。鳥貝がアルバイトを勤める大手ゼネコン関連の不動産会社は、GWこそかきいれ時だったのだ。
 アルバイトは日中だけだったが、夕方、仕事を終えて帰ってくる頃にはくたくたになっていた。GW前までは、土日だけの勤務だったから、連日に渡る勤務はさすがに疲れるのだった。
 さて、そんな疲れている鳥貝の所に、定例の百合子からのメールである。今日はターシャと妹の千早の2ショット写真もついていた。
 癒された気分になる。それから、百合子と3日も会っていないのだと少しだけ淋しい気分になった。GW中に百合子はほとんど寮を訪れていない。普段バイトをしていない百合子も、長期に渡るお休みの時は何かしらバイトをしているらしい。さすがに、遊興費用は自分で稼ぐくらいの分別はあるようだ。
 メールには、1日くらいどこかに遊びにいかないか? と、誘いの言葉があったけれど・・・・・・そんな余裕はなさそうである。断りの返事を返した。すぐに百合子から返信があって《無理すんなよ。》、その一言が嬉しかった。
 鳥貝は久しぶりに百合子に会いたいと思った。思えば、いつも百合子が会いに来てくれるばかりで、鳥貝からは一度も百合子に会いに行った事はない。
 学生のGWは、あくまで暦どおりだ。もっとも、講義を受け持つ教授たちはそうもいかない者も多いらしく、GW中は休講にしている講義も多々あったのだが。
 今回のGWは連休最長が5日間。今がその4日目。5連休の後は、2日平日・2日連休。
 鳥貝は、思い立って手帳を取り出し、講義予定を眺めた。平日の2日目の午後は休講でまるごと空いていた。
「1日じゃないけど、半日ならどこかに遊びに行けるかな。百合子さんは、どうだろうな。」
 鳥貝が伺うメールを送ると、すぐに携帯の着信音が鳴った。
 確か、百合子は今はまだバイト中だったはずじゃ・・・・・・と、思いながら電話に出ると、ひどく浮かれた声が聞こえた。
「オッケー。例え講義入ってても、フケればいい。春海とゆっくりできる時間、無駄にはしない。で、どこに行く?」
 講義のすっぽかしに加担する嫌な気分になりもしたけど・・・・・・百合子の事、一度や二度、講義をさぼったくらいで単位を落すとは思えないから、まぁいいか、と、珍しく鳥貝も快楽を優先する決断をした。・・・・・・自覚していないまでも、それくらい百合子と一緒に過ごす時間に飢えていたようだ。
 鳥貝の午前中の講義が終わり次第校内で落ち合って、ランチを食べに街に出かけることにした。見たい映画があるというと、百合子は二つ返事でオッケーした。

 しかし、何事も上手くはいかないもので。
 平日1日目の夜、バイト先から連絡があった。GW中、接客のほうにばかり人員を裂いていたために書類整理が滞っている上、普段それらを引き受けている事務担当の社員が身内の不幸で急遽休みになったというのだ。それで、明日、出勤してそれを頼めないかという話だった。たかがバイトの身、断ろうと思えば断れるはずだった。今日、久しぶりに大学構内で会った百合子がひどく楽しみにしていた姿を思い浮かべて、断ろうかとも思った。けれど、何度も「頼むよ」を繰り返され、電話の向こうで拝み倒している様子の人のいい上司の姿が目に浮かんで・・・・・・断れなかった。もっとも、大分交渉術を身に着けてきた鳥貝は、その代わりとしてGW最終日を休日として手に入れたのであったが・・・・・・。

 かなり緊張しながら、百合子に連絡を入れた。
 きっと、激怒するか拗ねるか・・・・・・相当悪い反応を覚悟していたが、予想外にあっさりと引き下がって、驚いた。いや、逆に何か裏があるかもしれない、とご機嫌伺いの言葉を繋げたのだが。
「もういいよ。そうだな、最終日は休みなんだよな。じゃあ、その日だな。」
 半日デートから1日デートになって機嫌がいいのかも・・・・・・? と、鳥貝は思って納得したのだが・・・・・・百合子という男を甘くみていた・・・・・・かもしれなかった。
 ふたりが「お付き合い」をするようになって1ヶ月と少しが過ぎていた。
 主に、百合子が一方的に鳥貝にラブコールを送り、鳥貝もまんざらでなくそれを受け止める、という形だ。鳥貝も勿論百合子の事は好きだと自覚しているのだが、百合子の激しい愛情表現に戸惑っている部分が多いから、どうしてもそうなってしまうのだった。百合子もそこの所は理解できているとは思う。だから、時々、冗談のように「おまえを食べたい」とか「おまえの最初の男にしてくれ」とか云ってくるものの、それを受け入れない鳥貝に無理強いはしないでいてくれる。
 鳥貝も、百合子とのそういう関係がまだしばらく続くと思っていた。けれど、百合子にとってはどうなのか、鳥貝に考えが及ぶわけがなかった。百合子の実情を、まったく理解できていなかったのである。

 約束の前日、鳥貝は鳥貝なりにうきうきしていた。服を用意して・・・・・・改めて、実家から持ってきた服がスタイリッシュな百合子とはつりあわない気がして凹んだりもした。けれど、今回のGW出勤のバイト代が入れば、少しくらいお洒落な服が買えるかもしれない、とも、期待していた。そのための、GWバイトでもあった。
 時々、鳥貝は、自分が百合子とはまったく釣り合わないのではないかと考えるようになっていた。元々、鳥貝はそういう事を考える方ではなかったのだが、ある時ふたりで街に出かけて、ショーウィンドウのガラスに映るふたりの姿の不釣合いさに気づいてしまったのだ。
 見た目からして見栄えする百合子は、どんな服でも自分流にスタイリッシュに着こなしてしまう。服に着られる、という事がまずない。スタイルがいい、姿勢がいい、顔がいい、立ち居振る舞いがいい。どこに行っても、男女問わず人を振り向かせる魅力がある。
 けれど、鳥貝はN県の田舎から出てきたばかりの、普通の女の子である。化粧の仕方もロクに知らない。地元の友人の社交辞令と冗談含みの言葉では、学校でも五指に入るくらいのかわいさと云ってもらった事はあったし、実際告白も何度か受けた事があった。だが、比較的自分を客観的に見られる鳥貝は、それは単に鳥貝の一見した人当たりの良さや雰囲気からくるもので、見た目の良さはあまり関係ないのだと考えていた。鳥貝は、自分の事を「ごく平凡な田舎娘」と結論づけていた。
 劣等感とか、僻みとか、鳥貝はあまり感じることのない人間で、東京に出てきてからもそういうものをほとんど感じたことはなかったけれど、百合子と一緒に出かける時だけは、そういった感情が少しだけ自分の心の中にあるのを認めるようになってしまっていた。
 ・・・・・・つまりは、それほど鳥貝が百合子を好きになってきている事の証でもあったが、その部分については、彼女はまだ自覚しきれていなかった。
 自覚ができたら、きっと、もっと、鳥貝は花開く。女の子とは、そういうものだ。
 花開かせるのは・・・・・・百合子。

 深夜0時前。
 寮にいる人間は、全て自分の部屋に入っている。基本的に、この時間の共用スペースは電気を消す事になっていた。朝帰りや深夜帰りの人間もいるから、玄関の常夜灯はつけてあったけれど。
 鳥貝も、明日の用意を終えて、既にベッドに入っていた。枕元に携帯が置いてあるのはいつもの事で、時折深夜おかまいのない夜型の友人からメール来て起こされる事もあったけれど、余程の緊急でない限りは返事は翌朝と決めていた。
 その日も、鳥貝がうとうとしかかっている頃に着信があった。
 こだわりもなく、マメな方でもない鳥貝だが、何人かの重要と思われる人からの着信メロディはわかりやすいものにしてあった。
 着メロは波の音だった。寄せては返す、優しい波の音。
「・・・・・・れ?」
 この着メロに設定してあるのは、ただひとりだけ。
 鳥貝は携帯をとって、その液晶画面に表示されている発信者の名前を認めた。
「百合子さん・・・・・・?」
 メールではなく、電話だ。
 非常識なようでいて、ちゃんと常識をわきまえている百合子がこんな深夜に電話してくるのは初めてだった。何かあったのかもしれない、と、慌てて鳥貝は電話に出た。
「どうしたんですか?」
『ごめん、起こしたか?』
 口調が、おかしい気がした。いつもの百合子っぽくない。
『実は、今寮の前にいる。終電ももう終わってしまったから、帰るに帰れないんだ。寮に入れてくれないか?』
 今日、講義はお休みのはずだ。自宅が隣のK県で、バイト先も地元だと云っていた百合子が、なぜ今日、しかもこんな時間に東京にいるのだろうか。いるならいると、連絡をくれなかった事が、少しだけ淋しい気がした。鳥貝だって、バイトがあったから、会う事はできなかったかもしれないが。
 鳥貝はパジャマの上にカーディガンを羽織って、外に出た。5月の夜風は、まだ冷たい。
 古い鉄製の表門は、開け閉めにそれなりの力がいるから、鳥貝に開けるのは難しい。だから、裏口をそっと開けて、百合子を招きいれた。
 深夜の闇の中に立つ百合子からは、少しだけアルコール臭がした。
「どうしたんですか、今日は。」
 裏口から玄関に回る。寮の入り口はもう一箇所、勝手口もあるけれど、そちらは夜間は使われない。実質表の玄関が出入り口だった。
 鳥貝の問いかけに、百合子は、ちょっとね、と答えただけで、やけに口数が少ないのも気になった。
 百合子を招き入れて、居間の灯りをつける。鳥貝がやってきてから、百合子が寮に泊まる時は、いつも居間のソファだった。だから、そのつもりで居間に通した。
「お酒、飲んでます? ・・・・・・冷たいもの、何か用意しましょうか?」
 まだ20歳になっていない百合子がお酒を飲んでいる・・・・・・云いたい事はあったけれど、鳥貝が云う事でもなかったし、どうやら普段からそれなりに飲んでいるらしいので、今更云っても仕方がない気がして、鳥貝はそう云った。
 本当は、どうしてこんな時間に東京にいるのが聞きたかった。けれど、それではまるで百合子の生活を独占したいと云っているも同然な気がして、聞くことができなかった。どこで何をしようが、自分の生活を管理できている百合子の勝手なのだから。まだ未成年ではあるが、保護者である親が息子のそこの所を信用して放置してあるのだから、鳥貝が問うべきではない、そう、思ったのだ。
 なのに、百合子は、
「おれが、こんな時間にこっちにいる事、聞かないのか?」
 ソファに腰掛けて、両腕をソファの背に投げかけ、尊大ともいえる態度と口調で鳥貝に問うた。聞いて欲しいのだろうか。鳥貝には、理解できない。
「だって、わたしが聞くことでもないでしょう。」
 百合子さんには百合子さんの生活があるのだから、と、心の中で付け加える。
 百合子は何も云わない。
 鳥貝は、溜息を落として、暗い台所に向かって、冷蔵庫から出したミネラルウォータを水差しに用意した。グラスコップと一緒にお盆にのせて、居間の小机の上に置く。
 その頃には、百合子はソファの上に横になっていた。わざとなのか、顔を背もたれのほうに向けているから、既に寝てしまっているかどうか分からない。
 起こすこともなさそうなので、鳥貝は予備の毛布を取りに、自室に向かった。冬用の毛布が、クローゼットの中に仕舞われている。
 灯りの着いた部屋で、クローゼットから毛布を引っ張り出していると、パタンと音がした。百合子が部屋に入ってきていた。寝ていたわけではなかったようだ。
「どうしたんですか? あ、まさか、またこの部屋で寝るとか? 変な事しないなら、いいですけど、ソファで我慢してくださいよ。」
 少しだけ、ほんの少しだけ、警戒しながら・・・・・・でも、冗談で済まそうと軽い口調でそう云った。でも、冗談で納まりそうもないのは、百合子の真剣な表情から、勘付いてはいた。
 カチリ、と、百合子は後ろ手で部屋の内鍵を閉める。
 百合子の整った顔が初めてみるくらいに真剣に、こわばってさえ見える。
 危険な予感がした。怖いと、思った。
「百合子さん・・・・・・・、あの、」
 鳥貝は、毛布を床に取り落として、思わず後ずさる。百合子が、足を踏み出した。
 百合子を、怖いと思ってしまった。
 今日、寮にいるのは安羅と白熊、珍しく時屋もいたかもしれない。声を出せば、誰かに聞こえるだろうか、と、一瞬考える。
 この古い洋館は、もともと、それぞれの部屋がゲストルームなのだ。ベッドがダブルベッドなのも、夫婦での泊り客が前提となっているから。だから、そこら辺の近代的なアパートやマンションに比べても、格段に防音性は高いといえる。壁に耳をつけでもしない限り、あるいは、余程大きな物音でない限り、隣室には聞こえないだろう。
 しかし、とも思う。
 声を出して、助けをもとめて・・・・・・それから? それから、百合子と自分はどうなるのか、と考える。百合子の立場が悪くなるのは、火を見るより明らかだ。兄夏目と彼らが長年築いてきた関係の崩壊にもなりかねない。なによりも、せっかく百合子を好きだと自覚できるようになったのに、このひと時、今のこの状態でいたって好きな気持ちは自覚できるのに・・・・・・助けをもとめる声なんて、出せない。
 鳥貝は、身を翻した。狭い部屋ではないけれど、それでも逃げ場があるわけではないのに、本能的な動きだった。
 また、同様に、百合子にとっても本能的な動きなのか、鳥貝を追いかけ、その手を取り、そのまま彼女の足元をすくった。
 むき出しの板床に倒れる、と目をふさいで体をこわばらせたが、背中に添えられた百合子の手によってそっと床の上に投げ出された。されていること、されようとしていることは恐怖でしかないけれど、百合子が鳥貝を大事にしてくれているのは、分かる。
「・・・・・・っ、や・・・・・・、」
 起き上がろうとしたけれど肩を押さえつけられ、百合子の体の重みが全身にかかる。年月を経て落ち着いた褐色になっている天井を見た直後、百合子の整った顔が視界を覆った。無表情だった。整いすぎた顔が、人形のようだと思った。
 唇を塞がれる。
 いつものキスとは違う。
 初めて不意打ちでされたキスでさえ、こんな激しく、空虚ではなかった。
 アルコールの匂い。噛み付くように絡み付いてくる唇。
 鳥貝は、抵抗しようとする。手で百合子の肩や胸を押しやろうとした。でも、ピクリとも動かない。足をばたつかせようとしても、百合子の足に絡みとられていて、動けない。
 鳥貝をいつも労わってくれる百合子は、今、ここにはいない。
 知らず、涙が溢れる。
 百合子が、好き。大好きなのだと、こんな時に思い知る。こんなに強い感情が自分の中にあるのが不思議なくらいにそう思った。
 ぼろぼろ涙が溢れて、こめかみを伝う。
 唇を離した百合子が、鳥貝の涙を認め、無表情のまま彼女の目元に舌を這わせた。
「・・・・・・かわいい。」
 かすれた声で呟いた。
「たまらない。おまえの泣き顔、好きだよ。もっと泣けよ。」
 唇を歪ませて笑う、意地悪な表情だった。
「そそられる・・・・・・、」
 云いながら、鳥貝の首筋に唇を押し当てた。
「・・・・・・や、」
 首筋を唇が這う。百合子の手がパジャマの上から鳥貝の胸を乱暴に揉む。
 鳥貝はどうしたらいいか分からなかった。ただただ、頭は混乱していた。
 この一ヵ月、何度も百合子に求められた。そのたび、やんわり拒否し続け、百合子もそれを了解していた。
 鳥貝が拒否したのは・・・・・・そういう気持ちになれなかったから。肌を重ねる事は、鳥貝にとってはまだ不必要な事に思えていたのだ。それに、彼女には、ちょっとしたトラウマもあったから。
 何より、鳥貝には、男の性衝動が理解できていなかった。
 いつの間にか百合子が鳥貝のパジャマの前ボタンを外しきっていた。パジャマの下は肌着として着ているTシャツだけである。そのTシャツの下から、直接手を差し入れられた。それだけでなく、もう一方の手は、鳥貝の腹部を伝いながらズボンの中に張り込もうとしていた。
「・・・・・・っ! やだ、やっ、百合子さんっ、」
 ぞくりとしたものが鳥貝の中を走り抜けて、彼女は再び無駄な抵抗を始めた。
「やめてください、いや、いやだっ!」
 手足をばたつかせた。
 少しだけ百合子はひるんだが、鳥貝の弱点を簡単についてくる。鳥貝の思考能力を奪うキスで、実際に鳥貝を黙らせ、動きを静止させる。
 角度を変えて、何度も重なる唇。百合子の巧みなキスに、実際、鳥貝は抵抗する事さえ忘れてしまう。
 けれど、悲しい気持ちは胸にせり上がって来る。大好きな人から無理やりこういう事をされるなんて、いやだった。せっかくの好きな気持ちが、どこかに行ってしまう。彼を好きな気持ちを失ってしまうのが怖かった。何より、こんな状況で肌を重ねたって・・・・・・後に残るのは、きっとお互い不幸に繋がる気持ちだけだと、そう思えた。
 だから、鳥貝は、百合子の唇が離れると、うめくように口にした。
「や、です・・・・・・無理やりは、いや、です。」
 涙は止まらない。自分の目が、真っ赤になっている自覚はあった。涙で目が霞んで、よく見えない。でも、その目で、百合子の視線を必死に捕らえた。
「こんな風に、無理に、したくないです・・・・・・お願い、」
 嗚咽に声が震えていた。
 百合子の動きは止まっていた。鳥貝の眼差しから顔を背ける。百合子の表情は、後悔に満ちているように見えた。百合子はのろのろと鳥貝の体の上からどいて、鳥貝から離れた場所に座り込んだ、彼女に背中を向けて。
 静かな夜の空気がふたりの空間を埋める。
 鳥貝が嗚咽を必死に抑えて、それを落ち着けていきながら体を起こして見た百合子の背中は、見たことのないくらいに陰りを帯びて見えた。


つづく