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[鳥貝大学3年の春]

Memories〜千里【1】


 最初、それはごく当たり前のいつもの云い争いだった。百合子の言動に対して、鳥貝が怒るようなそれ。
 さすがに付き合いも2年を越えて、それぞれの事がより一層分かっているとはいえ・・・分かっていると思っているからこそ、云い争いは起きる。
「ダメです。週末提出のレポート、ぎりぎりなんですから! 次のレポートも中々進まないし・・・今週は徹夜しないといけないかもしれないのに、百合子さんを構ってられませんっ。」
 部屋で真剣にパソコンと向かい合う鳥貝の首筋に腕を絡めて、その頭に頬ずりする百合子に鳥貝は云う。
「邪魔ですっ!」
「おまえの生理や実習で半月近く我慢したんだぞ? 解禁してくれてもいいじゃん。」
「もうしばらく我慢してくださいっ。そもそも百合子さん、自分もレポートとか実習とかあるでしょ!?」
「おれの場合はさくっとこなすから大丈夫。・・・おまえのそれもおれがしてやってもいいけど・・・、」
「ダメですっ!」
「・・・だよな。」
 百合子はやっと鳥貝の首筋から腕を離して肩をすくめる。
「あーあ、おまえがやらせてくれないなら、浮気、してくるかなぁ、」
 ぼそりつ呟く。
 鳥貝の背中がぴくりと震える。けれど、鳥貝は何も云わない。
「浮気、するぞ?」
 にやにや笑って言葉を重ねる百合子を鳥貝は完全に無視。
「春海、いいのか? 浮気、しかも男じゃない、女との浮気でも?」
 ふたりが付き合い出して2年超、鳥貝に異様に惚れている百合子は浮気をした事はないはずだ。その代わり、何かというと鳥貝を求める。鳥貝だけで満足しているというか、鳥貝だけしか見えていないというか。本人曰く、鳥貝以外には勃たなくなったと云い張りさえする。
 だから、この脅しもあくまで鳥貝の気を引くためのもの・・・と、分かっているから鳥貝も無視するのだけれど。
 分かっていても、イライラする。レポートなんて手につかない。
「そういう子供っぽい脅しやめてくださいっ! 私は勉強したいんですっ。足引っ張らないくでくださいっ!」
 立ち上がって怒鳴りつける。
 大学も3年生となり、専門教科が増え、鳥貝はますます忙しいのに、相変わらずな百合子に苛立つ事が増えたかもしれない。
 真面目で、学ぶことの好きな鳥貝は、勉強の邪魔をされる事を嫌う。
 だから、百合子が大して真面目に講義を受けているわけでもないし、勉強をしている所を見たこともほとんどないのに、やけに成績が良いのが釈然としない。鳥貝が悩むような問題でも、軽く答える。ついでに、先生方からの受けもいい。
 それを思っても、時々余計苛立つ鳥貝だった。
「わたしは百合子さんとは違うんですっ。ちゃんと勉強して、卒業して、建築関係のお仕事がしたいんです!」
 鳥貝の剣幕に百合子はむっとした顔をする。・・・本気ではないけれど。
「おれだって、院を卒業したら建築関係で働くつもだ。折角学んだことだし・・・春海と一緒に事務所を立ち上げてもいい。建築家夫婦、って事でいいじゃん。」
 多分ほとんど本気の言葉。
 医師の息子であり、医学部に進学できるだけの偏差値がありながら、工学部建築科に進んだのは兄とも慕う夏目がそこにいたから。夏目がいなくなって建築科に在籍し続けたのは、夏目を偲ぶため。そして、鳥貝が現れてからは、彼女と共に過ごすため。
 動機がいちいちおかしい。
「百合子さんは、どこまでが真剣か分からないです。建築を学んでいるのだって、真剣さに欠けてます。そんな人と一緒に働けるか、分かりませんからっ!」
「おまえへの気持ちだけは真剣。」
 鳥貝のイライラはかなりピークに達する。
「わたしは、建築学が好きなんですっ! 適当に学んでいるだけの人と一緒にいたくありません! まともに学ぶ気がないなら、建築科を出て行けばどうですか!?」
 かなり真剣に怒っている鳥貝に対し、百合子は感情を乱していない。
「建築学も好きだよ。面白いとは思う。けど、夏目や春海がいなきゃ、興味なんて持つ事なかったし・・・春海がいなきゃ、とっくに辞めてる。でも、おまえがいるから・・・、」
「じゃあ、邪魔しないでくださいっ。わたしは建築学を学びに東京に来ているんです。百合子さんといるためじゃないっ! 真面目に取り組む気のない百合子さんといるくらいなら、もっと別の、純粋に建築学が好きな人と付き合いますっ!」
 鳥貝のこの言葉には、さすがに百合子も真剣にむっとする。
 はっきりと不快を顔に描く。
「なんだよ、建築科に誰か好きな奴でもできたのか!?」
「そんな事云ってませんっ。でも、勉強の邪魔をする百合子さんといるくらいなら、Nくんとよりを戻した方が余程マシです。彼もすごく頑張ってるんですから、」
 鳥貝の過去の男にして、現在建築科2年のN。
 百合子が唯一、最大に嫉妬する相手。
 それがこういう引き合いに出されたのでは、百合子だって苛立つ。
 鳥貝も分かっていて引き合いに出したのだろうと思われるが・・・。
「まさか、浮気してるのか!? あの男と!?」
「してませんっ! たとえ話ですから! でもっ、百合子さん次第では分かりませんから! 他の誰とだって、浮気しちゃいますっ!」
 鳥貝の口から出るには珍しい言葉。
 それくらい、今日の鳥貝は苛立っている・・・理性を失いかけている。
 だから。
「百合子さんは過去に何人もの人と付き合ってきているのでしょうけど、わたしだって、百合子さん以外の男の人と・・・、」
 言い掛け、口をつぐみ、口元を押さえた。
 百合子の表情が険しくなっているからではない。己が感情に先走って、云ってはいけない事を口走ろうとした事を悟ったからだ。
 鳥貝は・・・百合子に云えない秘密を抱えていた。
 浮気、かもしれない。ただの、一度限り、気持ちのないそれを浮気と呼ぶのならば。けれど、鳥貝が百合子以外の男を受け入れたのは、事実。
 一生口に出さないと、決めていた。
 だって、百合子以外に鳥貝が肌を重ねたふたりの男は、どちらも百合子と深い繋がりにある存在だから。
「おれ以外の男と、寝るのか? それとも・・・寝た、のか?」
 低い声。探るような百合子の言葉。迂闊にも、言葉の後者に反応してしまう。
「おまえ・・・!」
 百合子が鳥貝の肩を掴んで、揺さぶった。
「おまえが、おれ以外の男と!? 嘘だろ!? いつ、誰とだ!? おれが初めてで、おれしか知らないんじゃなかったのか!?」
 百合子が鳥貝に対して本気で怒った。
 それは、ふたりが付き合い出してから初めての激昂ぶりだった。
「春海、はっきり云えよ!」
 涙が溢れた。
 不貞を働いたのは事実。
 百合子を好きで、愛していて・・・彼とずっと一緒にいたいと思っている。
 けれど、肌を重ねた男たちの事も、嫌いではなかった。
 ひとりは元々嫌いだった男。でも、彼の事を深く知って、彼を嫌いになれない自分に気づいて・・・打ちひしがれた彼の弱々しさには抗えず、彼と寝た。
 ひとりは友人として好きだった男。自分からの恋愛感情はなかった。けれど、弱っていた心が、彼の甘い提案に流され、受け入れてしまった。
「春海、なぁ、はっきり云ってくれ! おまえ、誰と・・・、まさか、無理やり!?」
 鳥貝は泣きながら頭を振った。
 嗚咽がひどくなってきて、何も云えなかった。
「おまえからか!?」
「・・・っ、ちが・・・う、」
 それだけは、伝えないと。
 しゃくりあげながら云った。
 自分から、百合子以外の男を求めるなんて、ない。
「っ!! くそっ! 誰だ、相手は!? ・・・、」 
 怒りで顔を赤くして、鳥貝を揺さぶり続ける。
「おれの知っているヤツか!? 大学か、バイト先の!?」
 反応できない。
 云うわけにはいかない。
「まさか、この寮の誰かか?」
 反応したくないのに、百合子は聡く読み取ってしまう。
「・・・っ! 時屋か? 安羅か!?」
 応えない。応えるわけにはいかない。
 泣きながらも必死で無反応を貫く鳥貝。けれど、何か思うところのあった百合子は、鳥貝を乱暴に突き放して、早足に部屋を飛び出した。
「安羅! 安羅、いるんだろ!?」
 どこかで、気づいていた。安羅が鳥貝に向ける眼差しが他の男達と違うことに。
 疑って、でも、疑う自分を戒めた。
 最愛の恋人と、長年の親友と。
 彼らを疑念の目で見る方がおかしいと、そう思ったから。大切な彼らを信じなくてどうすると、そう感じたから。
 けれど、今・・・。 
 百合子の激しい呼びかけに、階下から応える声がする。
 鳥貝は泣きながら百合子の後を追った。
「百合子、どうした?」
 状況を把握できていない安羅の声。
「安羅、おまえ!!」
 長年の親友ですら初めて見るような怒りの形相だった。
 百合子のその態度だけで、安羅の顔色はさっと変わった。状況を把握したのだ。
 百合子は怒りの形相のまま、階段の上から安羅を見下ろし、睨み付ける。
 安羅も動揺をすぐに押し隠して、静かな目で百合子を見上げた。
「百合子さん、っ、」
 涙声で鳥貝が追いすがる。
 階下の安羅を目に留めて、少しだけ息を飲む。
「百合子、何をそんなに怒っているんだ?」
 冷静な声だ。
 嘘を貫くのか、それとも、全てを話すのか。
 鳥貝は百合子の背中を見て、きゅっと手を握りしめた。
 百合子にとって、鳥貝は唯一無二。これまでの人生の中で一番大切な存在。
 大切な彼女が・・・本当は独占したくてたたまらない愛しすぎる存在が、他の男の手に落ちていたなんて。しかも、それは自分の親友。頻繁に顔をつきあわせる相手。
 安羅の冷静な声に、熱を冷まされるどころか、逆に頭に血が上り、百合子は階段を駆け下りた。
 普段から使っている木製の階段。
 そこから・・・、
「っ! やぁ、百合子さんっ!?」
 足を踏み外して、 
「百合子っ!?」
「いやぁぁ!!」


 百合子の怒声に気づいて部屋から出てきていた白熊と、食堂にいた多飛本が激しい物音に慌ててホールまで顔を出した時には、百合子はもう階段の下で意識を失っていた。
「百合子さん、百合子さんっ!!」
 鳥貝が慌てて階段を駆け下りて、百合子を抱きかかえようとするのを、多飛本が制する。
「頭を打っているといけない。安羅、救急車を!・・・安羅?」
 一瞬意識を飛ばしていたらしい安羅が、すぐにはっとして携帯を取り出し、救急車を呼んだ。
 救急車が到着するまでの十数分が、永遠のように長く感じられる。
 鳥貝は百合子の傍らに座り込んでひたすら泣きじゃくり、割合冷静に努めている多飛本と白熊は百合子の家に連絡を取り、百合子の靴を持っていく準備をし、またタクシーの手配をする。
 安羅は呆然として、立ちすくんで、目を閉ざしたままの百合子を見つめ続けた。


 百合子はK県との県境の総合病院に運ばれた。
 救急車には冷静な多飛本が付添い、白熊は泣き続ける鳥貝とどこか意識の希薄な安羅を連れてタクシーで病院まで向かった。
 状況は、当然事故。
 階段を踏み外し、足を滑らせて転倒。
 普段の百合子ならあり得ない事。


 精密検査を受けている最中、百合子の母なお美が到着する。
 やはり多飛本が簡単に事情を説明すると、なお美は痛ましい顔をして、壁にもたれかかり、泣き続けている鳥貝に視線をやる。
「・・・春海ちゃん、」
 呼びかけ、手招きする。
 鳥貝は真っ赤になった泣き顔のままなお美の側まで歩み寄り、どうにか嗚咽を押さえつつ、口を開く。
「ごめん、なさい、おば様、わたし・・・、」
「あなたが謝る事じゃない。・・・あの子が自分で足を踏み外したのなら、自己責任なのだから。・・・あなたが泣いている方が、わたしには辛いわ。」
 なお美は優しい手つきで、涙と汗に濡れた前髪をかき上げてやる。
 恋人の部屋に遊びに行き、そこの階段で足を踏み外す。それは、恋人である彼女のせいではない。
「ちがうん、です。わたしが、百合子さんを怒らせちゃったから、だから・・・、」
「怒って、我を忘れて、階段を踏み外した? それだって、あの子の自己責任。」
 なお美は鳥貝を気に入っている。彼女個人の人柄は勿論、彼女の生い立ち、彼女が息子に良い影響を与えてくれた事、それらを含めて。
 すでに娘に近い感覚になっていると云ってもいい。
「大丈夫よ、千里は。あんなでもかなり頑丈なんだから。子供の頃、海で何度もおぼれかかっても死ななかった子よ。今更簡単にどうにかなっちゃうわけないわ。」
 鳥貝の身体をきゅっと抱きしめて、なお美は囁くように云った。鳥貝は、泣き続けた。


 百合子の意識は割合すぐに戻った。
 深夜を少し回った頃だ。
 精密検査の結果に別段問題はなかったから、後は意識が戻るだけだと云われていた。
 うっすらと目を開いた百合子に、付き添っていたなお美と鳥貝は喜び、けれど、次の瞬間。
「・・・お袋? なんで・・・、この女は・・・?」
 意味が分からなかった。
「百合子さん?」
 咄嗟に鳥貝が掠れた声で呼びかける。
「・・・?」
 百合子は演技でもない不思議そうな顔で鳥貝を見つめる。
「百合子さん、大丈夫ですか?」
 問いかけても、反応が薄い。
 百合子は鳥貝を無視し、ナースコールを押すなお美に視線をやって問いかける。
「この匂い、部屋。ここ、病院か?おれ、何かあった?」
「覚えてない? 寮で、階段から滑り落ちたのよ?」 
「・・・寮・・・、って?」
「・・・百合子さん、」
 鳥貝が直感的に不安を感じる。
「千里?」
 なお美も違和感を感じる。
「・・・みんなを呼んでくるわ。春海ちゃん、お願い。」
 鳥貝が不審げな表情をする百合子に何か云う前に、なお美と入れ違いに看護士と医師が現れて、検査にかかった。
 特に異常はない、ただ。
「今日は何年何月何日か分かる?」
 看護師の問いに、百合子が答えたそれは、昨日今日の日付などではない。5年前のそれだった。
 何歳かとの質問には、16歳、と。


 鳥貝は、呆然と廊下のソファに座る。
 医師の説明によると、一時的な記憶障害だろうとの事。
 百合子の記憶は、彼が16歳、高校二年生の頃にまでさかのぼってしまっているのだと。
 だから、百合子は鳥貝を知らない。
 そうして・・・。
「多飛本たち、来てくれていたんだ。おれ、何があったかよく覚えてないんだけどさ、寮って、白熊んちの別宅の事か?」
「ああ、そこで間抜けにもおまえは階段から足を滑らせた。」
 多飛本が神妙な顔で答える。
「百合子、それで・・・、」
 安羅がほっとしたような微妙な表情で声をかけるのに、百合子は屈託なく笑う。
「安羅も白熊もいて・・・夏目と時屋は? バイト?」
 百合子の中では、夏目はまだ、生きている。
 皆が息を飲んだ。
 どう答えようか逡巡する。
 真っ先に答えたのは、鳥貝だった。
「夏目さんは留学中です。忘れちゃってるんですね。」
 落ち着いた、静かな声だった。
 皆が鳥貝をふりかえる。百合子も、鳥貝をじっと見る。
「あんた、さっきから、誰?」
「鳥貝春海です。」
 少しだけ寂しい声をして、鳥貝は言葉をつなげた。
「あなたは今TK大4年生、21歳。・・・わたしは、その後輩です。」
「はぁ?」
 百合子があからさまに不審な声になる。
 多飛本となお美は顔を見合わせて、簡単に事情を説明した。
 夏目の事を除いて。
 鳥貝の事は夏目の妹とは云わず、百合子の恋人だと説明した。
「・・・で、恋人の春海ちゃんのお部屋で喧嘩したあなたは、階段を踏み外したわけ。」
「ちょっと待て。なんだよ、その壮大なジョーク。病院にまで運び込んで。なに、エイプリルフールじゃないだろ、今日。」
 笑顔を強ばらせて百合子は云う。
 嘘ではないと、何となく直感している。けれど、彼は、彼の中ではまだ自分は高校生なのだ。
 そうして、基本的に女性の恋人とは長続きした事がない彼が、この女性と2年以上恋愛関係にあるなんて・・・あり得なかった。
 自ら身を引いて、皆の後ろ、部屋の隅で百合子を見ている女性は・・・まだ少女に近い幼く見える顔立ちをした、どこにでもいるような普通の女の子に見えた。泣きはらした目をしていたけれど、今の表情は薄い。
 女性に対する好みとしては、普段の百合子の好みではない。
 だから、皆が自分をからかっているのだと、そう云い続ける。
「千里・・・、」
 最後になお美が溜息をつく。
「明日、もう一度検査をして、先生に相談してから自宅に帰れるよう計らうわ。身体に何も問題がないのなら、入院している意味もないしね。だから、今晩はここでお休みなさい。早朝、千早も連れてくるから。・・・千早の言葉なら、もっと素直に聞けるでしょう?」
「千早はヘタな嘘はつかない。というより、嘘が上手くない。」
 状況の把握がしきれていないながらも、百合子は納得した。
「眠れる?」
「どうかな。でも、寝てみるよ。どうせ、朝まであと5時間くらいだろ? 寝られなくても、記憶喪失がマジだっていうのなら、思い出す努力でもしてみるから。」
 皆が病室から引き上げる。最後まで百合子を見ていた鳥貝も、なお美に肩を抱かれて、病室を出て行った。
 それから。
 百合子はかすかな不安を胸の奥に感じながら、ベッドに身体を横たえる。
 自分が21歳になっているなんて、あり得なかった。
 ましてや、あんな地味ともいえる女性と真剣に付き合っていたなんて。
「・・・夏目の言葉なら、もっと信じられるんだけどな、」
 呟いた言葉に、何故かひどく胸が痛かった。
 眠気はやってくる。けれど、眼裏にあの女性の顔がちらついて・・・目覚めは悪い気がした。


「一時的な記憶の混乱・・・ならいい。」
「明日の朝に戻っているとかね。」
 病室から少し離れた休憩室で、彼らはソファに座り込む。
 鳥貝の肩を抱いたままそこまでやってきたなお美は、彼女にソファーを促すと、その手をきゅっと握りしめた。
「大丈夫。千里はあなたにべた惚れなんだから、きっとすぐに元に戻ります。あなたを忘れるわけがないわ。」 
 鳥貝は焦点の定まらない瞳から涙をこぼした。
 百合子の前で泣くわけにはいかなかったから、我慢していた。
 なお美の肩に顔を寄せて、鳥貝は抑えた嗚咽をもらせた。
「・・・夏目の事、云わないで良かったんだよな。」 
 多飛本が小さく呟き、白熊が頷く。
「云わない方がいい。それでなくても、記憶喪失だなんて云われて、あいつも不安になってる。記憶がすぐに戻るなら、今だけでも夏目が生きていると思わせてやった方がいい。春海ちゃんの判断は正しいよ、」
 安羅が息を吐き、頭を抱える。
 その意味を、多飛本だけが察して渋面をする。けれど、何も云わない。安羅に云った言葉は、そのまま鳥貝を傷つける事が分かっているから。打ちひしがれた彼女を、これ以上叩きのめすわけにはいかない。
「明日、退院したら、あいつのこの5年間を知る人間と話をさせてやった方がいいだろうな。時屋にはメールだけしておいたし、あとはリオと斎さんの都合が付きそうなら、来て貰うよう連絡しておくよ。夏目の事も説明しておく。」 
「留学、でいいんだよな。」
「そうだな。アメリカの工業大学にでも留学した事にしておこう。研究が大詰めで忙しく、直接電話を掛けられないとでもしておくが、いいよな?」
 多飛本が白熊と安羅を見て、なお美を見る。
 なお美は静かに頷き、鳥貝に「それでいいわよね?」と囁きかける。鳥貝もゆっくりと頷いた。



つづく