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<オリジナル話・12>

永遠の嘘【3】


 それからしばらく、鳥貝のアルバイトは続いた。
 決まった日、時間に掃除に行き、開始時と終了時に中ノ瀬にメールを入れた。・・・ついでに百合子にも入れた。そんな必要はないと中ノ瀬は云うが、鳥貝なりのけじめだ。
 気を利かせているのか、鳥貝の部屋掃除の時間、中ノ瀬は姿を見せなかったから、鳥貝も身を入れて掃除ができた。
 大学の試験期間中は、さすがに少しだけ辛かったから掃除時間を1時間短縮させてもらったが、「掃除内容に問題はないなら構わないし、手を抜いた分、その後に力をいれればいい」と中ノ瀬は云う。
 昨年は単発のアルバイトを入れた夏休みだけれど、この年は教習所と普段のアルバイトと中ノ瀬の部屋掃除で終わっていきそうだ。
 部屋掃除のアルバイトは前金を貰っている3ヶ月・・・8月の終わりまでは勤め上げるつもりだが、その後は未定だった。8月が終わる前に、もう一度ちゃんと話をしなければ、と鳥貝は思う。
 割の良いアルバイトではあるけれど、長期間続けていく気はない。中ノ瀬の事は以前ほど嫌いではないけれど、警戒を怠れない相手だとの認識は変わらず、続ける程に彼との遭遇率が上る・・・云い換えれば、昨年やこの春のような事態になる確率が上がる事を思えば、続けていくのは不安なのだ。
 そもそも、中ノ瀬も素人で学生の鳥貝に個人的に頼むよりも、業者に頼んだ方が隅々まで手入れも行き届くはずだ。
 だから、続けるにしても年内だけにしようと鳥貝は考えていた。
 

 試験期間が終わり、夏休みに突入した8月。
 鳥貝は百合子と共にK市の教習所に通っている。ほぼ連日だ。行き、あるいは帰りに百合子の家に寄って涼んでいく、あるいは海に立ち寄るのが日課となっていた。
 学科は共に受け、実習は別だ。MTの百合子とAT限定の鳥貝。MTの方が時間がかかりそうなものだけれど、百合子は鳥貝よりも早く一度の補習もなく進んでいる。・・・運動神経は悪くないはずの鳥貝だけれど、緊張している為か時折ヘマをやらかして、何度か補習を受けることとなった。
 おかげでふたりが卒業するのは一緒になりそうだ。
 ・・・というわけで。
 鳥貝はきわめて充実した夏休みを過ごしていた。
 中ノ瀬の部屋掃除のアルバイトも、問題は特にない。彼と遭遇することも今までなく、時折メールあるいは電話で、お礼に夕飯でも、の中ノ瀬の言葉を慇懃+少々無礼にかわす程度の関わりだった。
 

 そして、8月中頃。
 鳥貝は、中ノ瀬の部屋掃除を今後も続けていくかどうかの話をまだきちんとしていなかった。中ノ瀬としては続けて欲しい口振りだけれど、鳥貝は年内で辞める方向で考えてる。ただ、それがいつかまでかは決めていなかったのだけれど、百合子にアドバイスを仰いだ所。「おまえの場合はさっさとあいつの懐を出た方がいい。あいつはおまえを味見したくて、舌なめずりしてやがる。いつまでもあいつの息の掛かる場所に置いておきたくない。」
 鳥貝も感じていた内容だ。だから、中ノ瀬にいずこかのホームクリーニングの会社と契約するよう促し、決まり次第辞めようと鳥貝は思い、中ノ瀬には数日前にその旨の連絡を入れてあったのだけれど、連絡はまだ来ない。こちらから連絡を入れて不在の場合、当日かその翌日には連絡を寄越す中ノ瀬には珍しい。余程仕事が忙しいのかもしれない。
 明日にでももう一度連絡をしてみようと、鳥貝はその日は少し早い目に掃除に向かった。夏休みに入ってから、予定のない日は寮の夕食の準備だけして早い目に出る事もあった。もちろん中ノ瀬了承済みである。
 6時前にはマンションに着いた。
 いつも通り部屋に入ると、カーテンを閉めてあっても、空調の効いていない部屋は蒸し暑い。
 まずはリビングのカーテンと窓を開け、それから寝室の窓を開ける。
 空気の入れ換えが必要だ。
 基本的に、鳥貝は空調は使わない。掃除のアルバイトに来て、余所の空調を使うのは気が引けるから。
 上層の階だけあって、風はよく入り込んで、意外と涼しい。もちろん、動き出すと汗は止めどなく流れ落ちるけれど。
 まずは寝室の掃除。リネン類を先に洗濯するためだ。洗面所に割と大きな乾燥機があって、他の場所を掃除している間に、洗濯と乾燥は終わるだろう。布団は干せないから布団乾燥機を使うことにする。
 それから、キッチン、ダイニング、リビング。
 上から順番に、が掃除の基本。
 天井が大層高いものだから、脚立代わりにダイニングの椅子を借りて電灯の笠から掃除する。
 最初の日に徹底的に掃除したものだから、割合綺麗だけれど、塵も積もれば埃の山となってしまうから、気は抜けない。
 真面目な鳥貝は、おおよそ決まった流れと手順で部屋を掃除していく。もちろん、手抜きはしない。高いバイト料を出してもらっているのだから、それ相応の仕事をしないと。
 風呂場は最後だ。
 浴槽を洗ったついでに、簡単にシャワーを浴びさせて貰うためである。
 鳥貝が掃除を始めて1時間程経った頃、洗面所に向かう為、立ち入りを禁じられている部屋の前を通ったときである。
 部屋の中からがたがた、と激しい音がした。
 寮では時折、ミス・ノーラが悪戯心もしくはしくじって、積み上げてあった物を崩すとか倒すとかして音が響く事もある。が、この部屋には動物の類はいない・・・はずである。
 積み上げられていたものが徐々に崩れて・・・とも考えられるけれど、鳥貝が掃除を始めてから今までそういう事はなく・・・鳥貝はぞくりとする。
 なにがしかの生き物の気配がした気もする。
 動物ならいい。
 狸とかイタチとか。
 鳥貝の田舎では家屋に猫や狸、あるいは猿などが入りこんで大騒ぎになった事もある。・・・けれど、ここは都会のど真ん中のマンションの上層。セキュリティもしっかりしている。動物が入り込めるわけがない。あるとすれば、そのセキュリティを抜ける知略があるモノ。
 一瞬、警察に通報しようかと考える。
 けれど、もしも鳥貝の勘違いで、単に物が徐々に崩れただけというなら、所有者の中ノ瀬にも迷惑がかかる。
 ならば・・・鳥貝自身が確認するしかない。
 息を吸い込み、吐き出して、気配を押し殺す努力をしながら、部屋のノブに触れ、ゆっくり回し、少しだけ開けた。
 まだ外はかすかに明るいけれど、カーテンの引かれている物置さながらの部屋は暗く、むっとした熱気に満ちている。隙間からは大して何も見えないけれど、少なくとも動くものの気配しなかった。
 もう少し開け・・・そして、はっとする。
 床の上に横たわるモノ・・・薄暗くその形状しか判然としないけれど、それは人影!
 身動きしないそれを鳥貝は混乱する頭で推測する。
 持ち主の中ノ瀬か、その関係者であればいい。けれど、それ以外だったどうするか、と。
 それを確かめなければと。
 ポケットの携帯を握りしめ、鳥貝は恐る恐る手を伸ばし、前に見たときに記憶に残るドアの脇にあるスウィッチに手を伸ばし、電灯を付けた!
「・・・っ!」
「・・・、・・・っ、あぁ、」
 一瞬眩しさに視界が効かなくなった、けれど、呻くような声には聞き覚えがあり、瞬きをしながら見れば・・・。
「・・・中ノ瀬さん?」
 雇い主だった。
 床の上に倒れるように仰向けに寝ている。
 ほっとするよりも、それが中ノ瀬だと理解したとたんに逆に頭に血が上る。
 この部屋の主がここに倒れている異常な状況に。
「どうしたんですか!? 気分でも悪いの!?」
 眠るなら寝室なりリビングのソファーを使えばいい。なのにエアコンもつけられていない、部屋の床の上で寝ているなんてあり得ない。
 慌てて駆け寄って、中ノ瀬を上からのぞき込み、揺さぶって良い物か考えている間に。
「・・・嬢ちゃんか・・・、もう、そんな時間だ、」
 腕が動いて、目を覆うように上に置かれた。
 声は掠れているけれど、正常のようだ。
「大丈夫ですか? 救急車呼ばなくても・・・、」
 熱中症か体調でも悪くて倒れていたのではと察した鳥貝が心底心配そうに云う言葉に、中ノ瀬は喉の奥で小さく笑った。
「・・・いや、ちょっと休んでいただけだ・・・、水、くれないか?」
「・・・はい、待っていてくださいね!」
 始めて見る覇気のない声、けだるそうな態度。
 休んでいただけにしても、体調が悪いように思われて、鳥貝は慌てて台所に向かい、冷蔵庫の中のミネラルウォーターをコップに移して中ノ瀬の元に駆け戻った。
 上半身を起こして、ぼんやりと宙の一点に視線を向けている。
「お水です。・・・エアコン、つけましょうか?」
「・・・ありがとう、頼む、」
 ノーネクタイの白いカッターシャツと喪服のような黒いスラックス姿だった。
 シャツは汗によって体に張り付いて、体躯の良い彼の体を顕わにしている。
「熱中症、起こしているんじゃないですか? 水のおかわりと、濡れタオルも持ってきますね・・・、」
 言い掛けて、部屋を出ようとした鳥貝の腕を中ノ瀬は咄嗟に掴んだ。
「・・・大丈夫だ、熱中症じゃない。ただ・・・、」
 鳥貝を見上げる目は、ひどく潤んでいるように見えた。それに、力なく、やけに物悲しげにも見えた。少なくとも、今まで鳥貝が知る中ノ瀬の表情に思われない。よく似た別人かとさえ思えてくる。
 言い掛けた中ノ瀬の言葉を、鳥貝は黙って待つ。
 十数秒が過ぎ、中ノ瀬は息を吐き出し、鳥貝の腕を離す。
「・・・、・・・、少し、疲れていたようだ・・・、悪い、」
 視線を逸らし、頭を抱える姿に、鳥貝の気持ちが騒ぐ。
 いつも余裕を持ち、人を食った態度で鳥貝を翻弄する男の、今の気弱な態度が胸に痛い。・・・百合子が毛布をかぶって泣いていた時の事を思い出す。
 高慢な人間が時折見せる弱い所に、鳥貝は惹かれるのかもしれない。
「・・・ひとりに、なった方が楽ですか?」
 感情による抑揚の薄い、穏やかな声音。
 普段、百合子を憩わせる、心の中に自然と染み入ってくるようなそれは、中ノ瀬さえも楽な気持ちにさせる。鳥貝に自覚はないけれど、彼女の声音は大概の人間の耳に心地良く響いた。
「・・・、しばらく、側にいてくれるか・・・、」 
 中ノ瀬はこの少女の性格はおおよそ把握している。こういう場面で、余計なことを云うほど厚かましくないと。
 鳥貝は無言でゆっくりと床に座った。
 中ノ瀬から少しだけ離れた位置だ。かすかに呼吸の気配を感じる程度の距離感。
 鳥貝は何も聞かない。云わない。
 今日は他人の気配を煩わしくさえ感じる中ノ瀬だが、彼女の存在感は妙に心地良かった。 
 だから、中ノ瀬は少しずつ胸の中の凝りの形状を確かめるように話し出す。
 誰かに聞かせたくはない・・・けれど、吐き出したいとも思う過去の、傷。
 鳥貝は、相づちを打つでもなく、黙ってただ静かに中ノ瀬の言葉を聞いていた。


 中ノ瀬の家は、いわゆる旧家だ。
 昔から続く、土地屋敷をK市に構えた、由緒ある家柄。
 もっとも、そんな形がいつまでも続くわけがなく、中ノ瀬の親の代からは地方に持っていた土地はほとんど手放さざるを得ない状況になり、K市にある土地も切り売りを続けてやっと屋敷を維持しているような具合だった。
 逆に、資産はあっても家柄を持たない輩も多い時代で、そういった輩は歴史ある家柄にこよなく惹かれる。
 彼女の家が正しくそれで、しがない物売りにすぎなかった彼女の祖父が戦後に起こした事業が成功し、金策が上手く抜け目のない彼女の父がそれを大企業にまで押し上げた、典型的な成金。
 彼女には年の離れた兄姉がおり、兄が迎えた妻もほとんど身売りをされてきたような没落貴族の出、姉は家業をより潤沢にするために人身御供にされるように親子ほど年の離れた金満家に嫁に出されていた。
 彼女の嫁ぎ先として目を付けられたのが、中ノ瀬の家であったのはまだ幸いだった。彼女の父は末の娘をこよなく愛していた。だからこそ、家格としてはやや物足りないものの、人格的に問題のない中ノ瀬の両親に目を付け、幼いながらも利発で見目の良い彼を娘の婿と決めた。多額の持参金を提示された中ノ瀬の家に断わる理由はない。
 何より、2歳しか年の違わない中ノ瀬と彼女はすぐに打ち解けて、幼心であっても互いを将来の伴侶にするのに文句はなかったのだから。
 10代の頃の彼らは、恋人のように兄妹のように過ごした。数年後に結婚することを、何も疑問に思うことなく。
 もっとも、年を経るごとに中ノ瀬にとって彼女は妹同然になってくる。彼女にとってもそれは似たような物。結婚する事には変わらず否やはない。互いに、互い以上に愛せる存在は現れないのだから。
 ・・・けれど、浮気心は男の性。中・高一貫の男子校に通っていた彼は、同性に興味を持ち、同性と付き合う事もままあった。それを、臆面もなく彼女に打ち明けるが、彼女も呆れながらもそれを許すあたり、長い年月を共にしたふたりは、似たもの同士になっていた。
 浮気は本気にはならいのが互いに分かっていた。
 なのに。
 優秀な大学に進学した中ノ瀬は、入学祝として都内にマンションを与えられた。彼女の父親からだ。
 2LDKのそこは、学生が住むには豪華すぎる、むしろ新婚夫婦が住むようなそれであり、彼女の父の云いたいことは明白だった。
 ふたりの新居として買い与えたのだ。
 どのみち、彼女が大学を卒業したら、ふたりは結婚する。
 それは、誰にとっても暗黙の了解であり、中ノ瀬も彼女も抗う必要のない、自然な成り行きだった。
 だから、彼女が中ノ瀬より2年遅れて大学に進学した後にそこがふたりの居住となるのも当然だった。
 ・・・が、当時、そこには同居人がいた。当時の中ノ瀬の情人であった男だ。
 中ノ瀬と同じ大学に通う一学年下の男は、繊細な容姿と穏やかな口調を持つ・・・皮肉屋だった。
 箱入り娘ゆえ、非常に勝ち気な彼女と男は何度もぶつかり、彼女は男をマンションから追い出そうと躍起になりつつも、いつも舌戦で負ける。そんな具合だった。
 それは、ある意味、穏やかで幸せな時間だったのかも知れない。
 彼女と男の喧嘩は、最初こそ本気であったけれど、回を重ねるごとにじゃれ合いの延長になっていった。彼女も本気で男を追い出すつもりが徐々になくなっていっていた。
 男の家は裕福とは縁遠かったが、男は自分の見目の良さとそれ以上の頭の良さを有効活用して生活費と学費を稼ぐ術を持っていた。
 箱入り娘の彼女にとって、その男は始めて接する種類の人間だったから、惹かれたのかもしれない。
 中ノ瀬自身がそうだったからこそ、彼女の気持ちは分かった。
 不幸なことに、女との快楽より、男との快楽の方がいい、と主張するその男にとれば彼女はただの小娘に過ぎないはずだったのに・・・男も不思議な縁で彼女に惹かれていった。
 大学生活を満喫し、小さなカクテルバーの経営を始めて忙しかった中ノ瀬が、彼らのじゃれ合いのような諍いを横目で見つつ放置しておいたのがいけない。気づいた時は、もう手遅れだった。
 彼女の腹には彼の子がいた。
 本気で愛していると、ふたりが中ノ瀬に訴えた。
 中ノ瀬にとっては、ふたりともが大切な存在だった。そしてまた、彼らを引き合わせたのが自分だという大きな責任感もあった。
 だから、自分ができる事は何でもしてやりたかった。
 腹の子を中ノ瀬の子だという事にするのが一番の解決策だと提案した。結婚を前提としたふたりだから、どこからも反対の声は上がらないだろう、と。
 けれど、ふたりともそれを承知はしなかった。
 子供のためにも偽りを作りたくはないと。
 結婚し、ふたりで育てたいのだと。
 世間知らずの彼女はともかく、嫌というほど世間を知っているはずの男がそれを口にするのに中ノ瀬は驚いた。
 それほど、彼らは惹かれあっていた。
 中ノ瀬の家はともかく、彼女の家がそれを決して許さないだろう事は想像に難くない。
 彼女を溺愛していた父親だが、その愛情は彼女が父親の懐を飛び出さない範囲で示されるものであり、父親の意に反すればどうなるかを彼女は理解していなかったのだ。
 彼女の父親の事を理解していた中ノ瀬が、再三止めていたにも関わらず、彼女は父親に報告に向かい・・・そのまま自宅に軟禁される事となった。
 堕胎できない程度に成長した胎児を無理に取り出すのでは彼女に負担が掛かりすぎる。彼女の父親は娘の子供が生まれ次第、里子に出すつもりでいた。秘密裏に自宅で出産させ、その後、予定通り中ノ瀬と婚姻させるつもりだった。
 面会は当然中ノ瀬だけが許された。娘と男を引き合わせた中ノ瀬だとて彼女の父の逆鱗に触れないわけではなかったけれど、傷モノとなった娘を引き受けさせるのは丁度良いのだと目されたわけだ。
 彼女の部屋には始終誰かが付添い、玄関、門扉には警備員が雇われた。
 彼女を決して外に出さないように。男と引き合わせないように。父親は自分の意に反した娘がそれほど許し難かったのだ。大層身勝手な理由だけれど、愛するものに裏切られたとでも感じていたが為だろう。
 彼女は目に見えてやせ細っていった。せめて、腹の中に宿す子供のために、と強くあろうとしていたけれど、食事が喉を通らなくなり、外部からの栄養注入によってどうにか彼女と子供は生きながらえていた。
 そして、男は・・・憔悴しきっていった。
 彼女と引き離されて以来、久しぶりに会った男は、中ノ瀬が信じられないくらい、弱っていった。
 引き離された当初はどうにか彼女を連れ出せないかと策を弄し、何度かは彼女に近づくことに成功したけれど・・・あえなく見つかり、たたき出された。これ以上中ノ瀬に迷惑をかけられないと、中ノ瀬には何も相談しなかった。もちろん、中ノ瀬の部屋からも姿を消していた。
 本気で人を好きになる事・・・中ノ瀬には分かっているつもりだった。
 彼女の事も男の事も、好きだった。心から愛していると思っていた。
 けれど、彼らの様は中ノ瀬の考えられない事態だった。恋や愛と云ったものが、事実こういう風に人を狂わせるものだとは、思ってもみなかった。
 物事を鷹揚に幅広く受け入れる中ノ瀬は、人に対する想いも似たようなものだ。幅広く好意を持ち、中には特別大切にする存在もいるけれど、それが唯一の対象物に収斂されるほど強くなった事はない。
 彼らの状態はとうてい理解しえないものであり・・・けれど、中ノ瀬の目には羨ましくさえ映った。
 中ノ瀬は彼らのために何ができるか考えた。
 けれど、たかが学生の身分の中ノ瀬が、幅広い人脈を有し、大企業をまとめる彼女の父親の裏をかくことはできなかった。
 すぐに中ノ瀬も彼女への面会を禁じられ、中ノ瀬自身だけではなく、家屋敷を維持するために細々と営んでいた中ノ瀬家の家業への出資も制限される事となった。
 中ノ瀬は最悪の結果を耳にするまで知らなかった事だが、男の唯一の肉親である父親が営んでいた小さな町工場が潰れ、父親が自殺していたのだと。・・・勿論、潰れたのは上からの圧力であり、それをなしたのは彼女の父親だった。
 若いふたりが愛し合い、将来を望んだだけの何がいけなかったのか。
 不幸の連鎖は続いた。
 自宅に軟禁されるようになってから、彼女は父親と顔を合わせることはなかった。彼女自身がそれを拒んだ事もあり、父親も次第に娘の腹が大きくなっていくのを見たくなかったからだ。
 だが、ある日父親は娘の元を訪れる。
 ベッドに横たわり、点滴を受けている娘の姿から目を逸らしながら残酷なことを告げた。そう言えば娘も諦めるとでも思ったのだろう。
 それが完全に逆効果だったのは翌日に知れる。
 ベッドの上からほとんど身動きとれないと思われていた彼女から監視者が目を離した隙に、窓から飛び降りた。2階の窓だった。
 父は娘に男の死を告げたのだ。事故で死んだと。
 まったく出鱈目な悲報を、心を病んでいた彼女はあっさり信じ、男の後を追った。
 そしてまた、それが彼女の悲報となり、どこからかそれを耳にした男も、彼女の後を追った。
 不幸の連鎖だった。
 どうにかしようと必死になっていた中ノ瀬も、彼らの事を聞いた途端、抜け殻になった。
 愛していたもの。大切なもの。
 同時にかけがえのない存在を失った中ノ瀬は、あまりに大きすぎる喪失に、しばらく己を失っていた。実際、数日の記憶が抜け落ちている。
 記憶があるのは、自分の親から連絡を貰ってから後だ。
 彼女が生きているのだと。
 一命を取り留めた・・・が、腹の子は失われ、意識を失ったままだと。
 病院の奥まった一室で、息があるのが不思議なくらいに静かに眠る彼女を見て、生まれて初めて号泣した。
 それは、喜びもあったかもしれないが、それ以上の哀しみの為だった。
 彼女を失ったと思い命を絶った男。男を失い、子を失った彼女。
 彼女は、これからどう生きていけばいいのだろう。
 彼女が目覚めたのは一週間ほどしてからだった。けれど、しばらくは意識の混濁がひどかった。中ノ瀬の事をしっかり覚えている日もあれば、魂のない人形さながらに見開いた目を宙に向けているだけの状態の日もあった。時々、ヒステリックになって暴れて手が付けられない時もあった。
 それが2,3ヶ月続き、彼女の状態は落ち着いた・・・けれど、彼女の記憶は失われていた。完全にではない。高校生あたりから曖昧になるような失われ方だった。
 中ノ瀬は、それで良かったのかも知れないと思い、決意をした。
 彼女を連れて日本を離れることを。
 記憶を失っているのに、彼女は父親を恐れていたし、父親もまた罪悪感があるのか娘には近寄らないようにしていた。
 落ち着いたように見えても、彼女は何かの際・・・失った記憶が刺激されるような時に、ひどく不安定になった。
 彼女にとって日本が良い環境であるはずがない。
 記憶を失ったのなら、失ったままで良い。それで、彼女がこれから正常に生きていけるのなら。男も、それを一番に望んでいるはずだ。
 だから、中ノ瀬はあと僅かで卒業できるはずの大学を中退し、彼女を伴ってアメリカに向かった。
 もちろん、彼女の父親からの反対はなかった。
 それから数年、アメリカに滞在して大学に通い・・・彼女は記憶を取り戻すことなく帰国した。
 アメリカにいる間、お互い別の人間と恋をしたりもしたけれど、結婚に関しては彼女は中ノ瀬としたいと云った。彼女は中ノ瀬しかいないのだと云い・・・中ノ瀬もそれを受け入れた。
 もう、彼女が不安定になる事はなかったけれど、彼女は自分の失ったものを知らない。知っているのは、子供が産めない体になったという事。けれど、それについての彼女は割合冷静だった。中ノ瀬も別段子供を望まなかったからだ。
 だから・・・今日が、特別な日だと云う事も知らない。



つづく