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<オリジナル話・12>

永遠の嘘【2】


 鳥貝は困っていた。
 切羽詰まる、という程ではないけれど・・・ともかく困っていた。
 実家への借金の話は一応成功した。
 少しだけ寂しそうな母の声に後ろ髪を引かれたけれど、教習所が終わり次第帰ると堅く約束した。
 けれど、問題があった。
 教習所の代金はそれなりにかかる。その半額ならば即金で渡せるけれど、後の半額は父親のボーナスまで待ってくれというのだ。全額渡せないことはないけれど、定期を崩すのは勿体ないでしょ、との事。
 鳥貝も借金をする立場だから強く出られない。
 支払いはカードやローン払いもきくけれど、鳥貝はカードを持っていないし、ローン払いとなると親名義になって色々手続きが面倒だ。
 かと云って、百合子にこの事を漏らそうものなら、百合子家から簡単に借りてきてしまうだろう。いくら良くして貰っているからと云って、金銭に関して甘える事は避けた方がいい。
 だから、少しだけ困っているのだ。
 例えば父親のカードを借りてそちらで夏のボーナス一括払いにしてもらうとか、一度だけ親に来て貰ってローンを組むとか、いっそ定期を崩して貰うとか、交渉次第では何とかなりはするけれど・・・それでは全て親の脛囓りもいい所だ。
 こういう所でも、自分がまだちっとも自立できていない事を実感してしまい、情けない気分になる鳥貝だった。
 だからこそ、自力で何とかしたい。
 親にも百合子にも頼らずに。
 そのためには。
「割のいいアルバイト、探さないと!」
 夏まではまだ少し余裕がある。全額は無理でも、少しくらいはまかなえる程度に稼がないと。
 学友クラブで、斎の目を避けながら(捕まると長い。そして事情を話そうものなら、確実に即刻お金を用意してくれようとする。)掲示板に貼られたアルバイト情報を確認する。
 専門的なアルバイトはまだ無理だ。
 だから、せめて家庭教師ならば何とかなる。
「時給2000円で2時間、週1だと4000円。月4回あるとして、16000円。掛け持ちしたとして・・・、」
 ざっくりと計算はするけれど、実際家庭教師なんてしたことがないから、上手く勤まるか、掛け持ちできるのか、分からない。
 斎を通して顔見知りになった学友クラブの1年上の女生徒が声をかけてくれる。
「鳥貝さん、家庭教師のバイト探してるの? 割はいいけど、相手次第では結構厳しいわよ? 本人だけじゃなく、ご家族と気が合う合わないもあるし・・・男の子相手だと、ちょっと面倒。特に鳥貝さんって、大人しく見えるし、かわいいし、純情だし、ちょっかい掛けやすく見えるから。」
 女生徒がくすくす笑う意味が把握しきれない。
「実際、うちの大学って男子が多い理系だから、カテキョの募集もほとんど男の子相手ばかりよ?・・・オススメできないなぁ。百合子くんが問題起こしちゃいそう。」 
 そこで何故百合子が出てくるのか。
 きょとんとする鳥貝に、女性はまた笑う。
「本気で理解してないのね、あなた。そういう事に疎すぎると、今時の母親を相手にするのは難しいわよ? 特にこの大学にカテキョの依頼するのって、近隣の教育ママが多いし、余計な勘ぐりされても、それを上手くかわせるくらいでないと。」
 確か年齢は2歳違うだけなのに、子供にするようにぐりぐり頭を撫で回してきた。
 子供扱いされてむっとしないでもないけれど、そこには好意が感じ取れるから、溜息をつくに留めた。
「何か、割の良いバイトありませんか?」 
「ん〜、どれくらい稼ぎたいの?」
「多ければ多い程いいんですけど、」
「・・・妊娠でもした?」
 どうしてそういう勘ぐりをされるのか。
「しっ、してませんっ!!」
 顔を真っ赤にして否定したけれど、思い切りからかわれているだけだ。
「そか。でも、百合子くん家、産婦人科って云うから、それは心配しないでいいわよねぇ。」
 からかい続きの言葉に、鳥貝は反応しないよう努めた。
「斎さんがからかっている理由、良く分かるわ。顔色ころころ変わって面白ろぉい。で、かわいい。・・・まぁ、真剣な話、バイト料が良くて相手次第では楽できるのがカテキョウ。バイト料だけ見れば、土木・建築系の肉体労働方面もあるけど、女の子には無理。・・・ここではさすがに扱っていないけど、女の子の夜のバイトもあるけど・・・、オススメしたくないなぁ。」
「夜のって・・・もしかして、お水系?」
「そう。キャバクラ、東京の女子大生には人気のバイトよ? お店さえ選べば安全に働けるけど・・・、あなたにそんな仕事紹介なんてしたら、わたし、百合子くんだけじゃなく、斎さんとか安羅さんにも責められそう。」
 ぶるっと体を震わせた女性は、悩ましげな表情をする鳥貝を見て、微笑んだ。
「何にお金がいるのかは分からないけれど、無難なバイトにしておきなさい。カテキョも女の子対象の探してあげるから、」
 言い置いて、女性はアルバイト情報が掲載された分厚いファイルの並ぶ棚に歩いて行き、鳥貝は溜息をついた。
 夜のアルバイトの時給が良いのは聞き及んでいる。だから、お金を稼ぐなら、と考えた時にそれも頭に浮かんだ。
 けれど、自己分析のできる鳥貝は、自分がそういった商売に向いているとは思えなかった。
 以前百合子のバイト先で会った夜の町の女性達を思い出し、あれくらい愛想が良くて、饒舌で、綺麗じゃないとやっていけない、と判断している。
 作り笑顔は無理だし、人を気持ち良くさせる軽快な会話も苦手だ。容姿にはコンプレックスこそないが、綺麗になる自信はない。
 家庭教師の募集を探して貰っている間、最近はマメに携帯をチェックする鳥貝が(百合子が五月蠅いのである)、携帯を見ると不在着信があった。発信元は・・・。
「・・・また、」
 苦々しく呟いてしまう。
 この春、鳥貝の誕生日に別荘を貸してくれたお礼を(不本意ながらも)云った後、携帯ナンバーを通知してしまった事もあり、時折連絡が来るようになった、中ノ瀬。
 内容は不思議と他愛ない事が多い。
 彼が口癖のように云う「おまえらが可愛いから構いたくなるんだって、」の言葉は多分事実なのだろうと、今では鳥貝も理解している。ただ、構い方が極悪だ。犯罪すれすれである。
 が、誕生日の件以来・・・もしかすると、あの時の詫びのつもりなのか、連絡してくる内容に毒はない。
 前に連絡をもらった時は、頂き物の蟹のお裾分けだった。鳥貝が警戒して拒否した翌日、百合子が寮に蟹を持って来た。
 その前は、中ノ瀬の経営するイタリアンレストランへのご招待だった。季節ごとに新作メニューの試食会を常連客限定で行うらしい。行くつもりはなかったけれど、時屋と百合子に強引に連れて行かれた。少額の会費でのビュッフェ形式で、食後にアンケートに記入するといった形。正直どれもとても美味しかった。 
 普通に考えれば、むしろ好意的な内容であるのだけれど、中ノ瀬については2度も不快な事をされているから、警戒は怠れないと鳥貝は考える。
 今回は何だろうか。
 嫌なら無視すればいいだけなのに、いちいち真面目に連絡する鳥貝の律儀さが毎度の件に繋がっていくのだけれど、鳥貝にはあまり自覚はない。
 鳥貝は留守電に入った中ノ瀬のメッセージを聞いて溜息をついた。
『今年の夏も例の別荘使うなら、開けておいてやるが、どうだ?』
 この春、中ノ瀬に借りたK沢の別荘の事だろう。
 善意であればこの上なくありがたい申し出だけれど、あの男の場合は色々と下心がありそうな気がする。・・・きっとまた、宿泊中にちょっかいを掛けに来るに違いない。
 だから、答えは勿論ノー、だ。
 アルバイトを探してくれていた女性が、女の子対象の家庭教師の募集はないことを伝えてくれ、その他のアルバイトをいくつか提示してくれたが、そのどれも今鳥貝が定期的にしているアルバイトと大差ない時給だった。
 肩を落としながら学友クラブを出て、律儀に中ノ瀬に返信をする。中ノ瀬へと繋がる電話は大概留守番電話で、今日もそこに辞退する伝言を残すつもりだったのだけれど、珍しく通話に出た。
「夏のK沢の豪華別荘宿泊なんて、滅多とない誘いだろう?」
「・・・どうせ、あなたも来るつもりでしょう?」
「どうかな。時間ができたらちょっかいかけに行きたいが・・・君の嫌がる顔を見るのも楽しい。」
 電話だからより分かる、笑いをこらえた口調。
 鳥貝は小さく息を吐く。
「ともかく、お気持ちは嬉しいのですが、お断りさせて頂きます。」
 鳥貝の、心のこもらない棒読み言葉に、中ノ瀬は声を立てて笑う。
「そんなに嫌がるなって。おれは君の事も好きなんだぜ? 娘みたいでかわいい。」 
 鳥貝は呆れる。確かに年齢差を考えれば鳥貝は十分に中ノ瀬の娘でも通用する。が。
「・・・。・・・娘にかけるちょっかいにしては、度がすぎています。」
 去年末の事、春の事。
 鳥貝は電話向こうに見えていないことを分かっていながらも、渋面を作らずにはいられない。
 また中ノ瀬は笑う。
「・・・で、それだからお断りなわけか?」
「それも理由のひとつです、」
「他にも?」
「この夏は教習所に行くんです。日程の都合が未定なので、借りる約束はできません。」
「・・・なるほど。それじゃあ、」
 中ノ瀬が言葉を続けようとすると、背後から声がかかる。聞き覚えのない女性の声だが、情人とかいう存在の柔らかな声音ではない。おそらく、仕事関係の人間だろう。内容はよく分からないが、やはり仕事に関してのようだった。
 ほんの1、2分待たされている間に、鳥貝は思い出す。中ノ瀬が夜のお店だけではなく、何件かの真っ当な飲食店も経営している事を。
「・・・お呼びがかかったようだ。愛しいきみとのんびり話す休憩時間ももらえないらしい。」 
 まるで恋人に向けるような甘い声音になっている。あくまでからかう言葉なのだと分かっているから、鳥貝はそこはスルーする。
「中ノ瀬さんにお聞きしたい事ができました。後で連絡させてもらいます。」 
「うん? 夜の予約なら今でも受け付けるが、」
「夕方、都合の良い時間ありますか?」
「・・・こちらから連絡する。長い話か?」
「とりあえずは短い話です。」
「とりあえずは、な。分かった。連絡は・・・おそらく5時頃になる。」
「わかりました。よろしくお願いします。」
 携帯を切り、息を吐く。
 中ノ瀬への話は、もちろんアルバイトについてだ。
 さすがに夜のお店のアルバイトを頼むつもりはない(頼めば喜んで紹介してくれそうだが)。通常の飲食店で何かできるアルバイトがないかを聞きたかった。あるいは、顔の広い中ノ瀬だから、何かしらできそうな仕事はないか。
 折角できた人脈なのだ、使わない手はない。
 中ノ瀬という人物の人格には疑いを持っているが、ビジネスマンとしての彼の手腕は人づてに聞く限りでは信用して良いようだから。
 何かあればいい、程度に鳥貝は考えていただけ。
 予想外に割の良い・・・怪しむべきバイトはあっさり見つかった。


 鳥貝の言葉に、中ノ瀬は鳥貝も予想した夜のバイトへの勧誘を冗談交じりに云い、きっぱりした否定の言葉をうけた後、すぐに提案した。
「おれの部屋の掃除はどうだ?」
「・・・はい?」
 もちろん、最初は冗談かと思った。
「・・・とは云っても、別宅のマンションなんだけどな。S区にある。おまえらの寮から電車かバスで30分くらいで着く場所だが、」
「ちょ、ちょっと待ってください。場所の説明よりも、なぜ部屋の掃除が必要なのかの説明してもらえませんか? そもそも、今までどうしていたんですか?」
「君はタイミングがいいんだよ。これまでは業者に頼んで週2程度掃除に入って貰っていた。都内での仕事の時に立ち寄ったり体を休めるためのマンションだから、そう散らかりはしない。だが、仕事上の書類等が置いてある事もあってな、立ち入りを禁じていた部屋があったんだ。その部屋に人が入った。業者に問い詰めたら、申し送りが不十分で新人が立ち入ってしまったとの事だった。・・・別に盗まれた物もないし、変に移動されてもいない。ただ・・・触れて欲しくないものに触れてあったのが勘に触ってな、そことの契約を解除したのが先月。」
 触れて欲しくないもの。
 そこで、かすかに中ノ瀬の声が躊躇した気がした。
 彼が何事につけ鷹揚で懐の深い男なのは、鳥貝の周りの人物たちからの評判でも分かるし、鳥貝もなんとはなく理解している。
 だから、立ち入りを禁じていた部屋に一度だけ立ち入られたぐらいの事に腹を立てる男ではないはずなのだ。
 だから・・・触れて欲しくないもの、それが余程のものだったのかもしれない。
 この男にも、そういう部分があるのだと、不思議と感心してしまう。
「おれは掃除の類は苦手だからな、ひと月近く放置してあって、かなり散らかっている。初回は君の休みの日に来てくれるとありがたい。別料金で5万出す。以降は週2回程度来てくれればいい。交通費込みで月8万払おう」
 部屋の掃除の報酬としてどれくらいが妥当なのか鳥貝には分からない。
 余程広い部屋であるとか、求められる事が多いのであればそんなものかもしれないけれど、それにしたってかなり高額な気もする。
 が、そこら辺りを聞く前に中ノ瀬は勝手に説明を続ける。
「曜日と時間は君次第だが、おれは金曜と土曜の夜11時過ぎ、月曜の朝にはほぼその部屋に行くから、おれと会いたくないなら、それ以外の時間にすればいい。まぁ、気まぐれで朝か夜に立ち寄る事も時々あるが。で、掃除をした痕跡さえあれば時間は何時間でもいい。さして汚れていなければ適当に片付けて帰って貰うだけでも構わない。それは、君次第だ。部屋の鍵は管理人に預けておくし、ゴミ出しの内容についても管理人に聞くといい。おれの愛人だなんだと怪しまれたくないなら、おれの親戚の娘って事にしておくが、」
 鳥貝が「はい」と云う前に、勝手に話が決まり掛かっている。
 慌てて止めに入ると、中ノ瀬はくすっと笑う。
「この上なく良い話だと思うんだが? きみは片付けの類は苦手じゃないだろう? 時間の融通も利くし、おれは基本のルールさえ守ってくれれば五月蠅いことは云わない。きみが入り用な教習所の費用くらい数ヶ月で稼げる。・・・先払いにも応じる。おれがきみの人となりを信用しているからだ。・・・で、」
 そのまま受け取れば、確かに良い話だけれど、即決するには中ノ瀬のプライベートを信用しきれない。
「・・・普通のマンションなんですよね?」
 鳥貝の警戒心を読み取って、中ノ瀬はくすりと笑う。
「あたりまえだ。築年数は少々古いが、まだしっかりしている。無理にきみを連れこむつもりはないぜ。そうだな、心配ならユキに聞けばいい。あいつも昔は何度もあのマンションに来ていたんだ、」
 からかうような口調の意味がわからない鳥貝がどう応えた物か考えている間に、中ノ瀬が鳥貝にとってこの上なく不愉快な事を口にする。
「大通りから少し奥まった場所にあってな、逢い引きには丁度良いんだよ、あのマンション、」
 もちろん、瞬時に悟る。
 携帯を持つ手が震える。
 やきもち。
 この男が長く百合子と付き合っていた事は知ってるし、別れてからそういった関係がない事も理解しているつもりでも、直接そういった事を口にされるのは苛立つ。
 電話向こうでこちらの気配を察してか、あからさまな笑い声を立てられて、このバイト、断ろうかとも思う。
 けれど。
「ひと晩だけ、考えさせて下さい。百合子さんとも話してみます。」
 深呼吸してからそれだけ口にした。
「了解。良い返事を期待しているよ。」
 中ノ瀬の含み笑いの声は、確実に鳥貝の良い返事を想定していた。


「・・・警戒さえ怠らなければ大丈夫じゃないか?」
 夜、百合子に相談の連絡を入れた時の言葉である。
「かなりいい条件付けてくれたじゃん。あいつ、片付け苦手とか云っても、散らかす事もあんまないからさ、割と楽だと思うぜ、部屋の掃除。あの部屋じゃタバコも吸わないし、ペットを飼っているわけじゃない。それに、あのマンションに情人を連れ込む事もまずない、」
「百合子さんは行ってたんじゃないですか?」
 隠そうとしているのだろうか。面白くない気持ちで問いかけると、百合子はうーんと唸る。
「何度かは行ったけどな、そういう目的じゃない。遊び用のマンションはもうひとつ都内に持ってるんだ、あいつは。だから、あそこのマンションに入る許可をもらえるってだけで、かなり信用されている事になる。まぁ、おまえだしな、」
「・・・はぁ、」 
 悪びれる事なく否定されたのは面白くないけれど、割合真剣な百合子の声と言葉の後半にむず痒い気持ちになる。
「掃除だけにしちゃ、もらいすぎだって部分の警戒は不要だろうよ。もらうのは、労働対価だけじゃなく、守秘対価でもあるんだろ。それに、あいつにとったら端金だし、そこらの清掃会社よりもおまえの方が信用できると判断したからこそだろう。・・・おまえ、実際堅いし、不必要に真面目だし。掃除、手を抜くとかできないだろう?」
「・・・そりゃあ、任されたからには。」
「なら、適任だ。とりあえず、やってみればいい。もし、梓にちょっかいかけられそうになったらすぐにおれに連絡しろよ。警察に通報してもいい。あいつの場合、悪戯の度がすぎてる。おまえが本気で嫌がっても、面白がるだけだ。ただ、一応一線は弁えているはずだから・・・おまえに本気で手を出すことはないと思うけど、」
 百合子は、この春に鳥貝がK沢の別荘で中ノ瀬にかなり悪質な悪戯をされた事を知らない。百合子が熟睡している間に事はなされ、鳥貝も話せないままここに至っている。
 当初はかなり堪えていた鳥貝だけれど、時間の経過と、中ノ瀬の人となりをより知る事で、あれが中ノ瀬にとっての『ただの悪戯』にすぎないと理解し、自分が重く受け止めすぎていたのだと自然と思考を変化させた。
 だから、今、警戒をしながらも割と普通に中ノ瀬と接する事ができているわけだけれど。
「一線は弁える、ですか、」
 思わず呟く。
 確かにそうなのだろう。
 最後のそれはぎりぎりで越えられはしなかった。けれど・・・キスはされた。
「何かされたのか?」 
 百合子が不安そうに問いかけてきた。
 昔の情人が相当悪癖だと知っているからこそだ。
「いえ。ただ、あの人は信用できないから、」
 鳥貝はきっぱりと誤魔化す。
 嫌いだった。憎かった。
 でも・・・そう思い続けられない男だと、今では思う。
「なら、いい。条件の良いバイトだけどな、雇用主に対しては気を抜くなよ? おれがいちいちついていくわけにはいかないけど、バイトに行く前と帰ってから、メールででも連絡を入れてくれ。」
 この内容だけでも相当に過保護だけれど、本当は鳥貝を片時も離したくないと思っている百合子にしてはかなりの譲歩。
 鳥貝は笑ってはい、と云う。
 百合子のお墨付きももらい、鳥貝の新たなアルバイトは決まった。


「・・・というわけで、よろしくお願いします。」
 翌日、百合子との会話の一部を話し、そう電話を入れた。
 朝、中ノ瀬の仕事が始まる少し前だと聞いていた時間に電話をかけると、本人に繋がった。
「ユキも心配性だな。おれが同意もなく君に手を出すわけがない。」
「・・・。・・・。同意もなく手を出さない?」
 不信感を表した声で云うのに、中ノ瀬は笑う。
「春先のは、君も同意していなかったか?」 
「人を脅しておいて、よく云えますね。それに去年のは、」
「あれは単なる勘違いだ。おれの経営する店の事務所で寝ている女の子、据え膳かと勘違いするのも当然だろう?」
「・・・っ、もう、」
 怒りは覚えない。
 少しの苛立ちと大半の呆れだ。
「アルバイトの内容については、こちらが雇って貰うので我が儘は云いませんが・・・自分の家だからってそういう事をするのだけはやめてください。わたしの仕事内容はあくまで「部屋の掃除」なんですから、」
「・・・ふむ。じゃあ、別のバイトとして提示しようか? 君なら、一晩で教習所代くらいは払ってやるぞ?」
「・・・っ! 犯罪じゃないですか、」 
「馬鹿にするんじゃない。人間が歴史に登場してから続く、由緒ある職業だ。・・・おれは、金で買ったことはないが、君は特別。同意前提のビジネスライクなら、手を出してもかまわないだろ?」
「・・・。・・・あなたの冗談には付き合っていられません。ともかく、今度ああいう事をしたら、警察への通報も考えますから、」
「・・・やれやれ。結構マジなんだがな。・・・ユキはホント、珍しいものを選んだよな。堅すぎる。夏目くん以上だ。・・・だから、夜の顔が見てみたいわけなんだが・・・、」
 百合子から聞いた所によると、中ノ瀬は夏目にもちょっかいをかけていたそうだ。勿論、ノーマルな夏目がそれを受け入れるわけがない。
 夏目の名前まで出しての失礼な云い方に、通話を切ってやりたいと思うけれど、一応雇い主、鳥貝は深呼吸をしてひと呼吸を置く。
「ともかく。掃除のアルバイトの件、お願いします。契約するにあたって、一度お会いしたいので、都合の良い日を教えて下さい。」
 話がいくらでも脱線していきそうな中ノ瀬との会話を鳥貝は無理矢理軌道修正し、約束を取り付けた。
 もちろん、会うにあたっては、百合子も同行する前提だった。
 それから数日後に会い、生真面目な鳥貝はきちんと中ノ瀬に勤務日時を申告した。
 週2回、水曜日と日曜日の夜7時から10時に掃除に伺います、と。逆に、その時間には来るな、と暗に云ったのだ。
 中ノ瀬は笑ってそれに応じる。
 アルバイトの契約書も一応交わされた。鳥貝が求めたからだ。
 そしてまた、初回の掃除後、鳥貝の仕事に申し分がないというのなら、3ヶ月分の給料の先払いにも快く応じた。
 マンションの部屋はいわゆる2LDK。2部屋あるうち、入ってすぐにある方の部屋には立ち入るな、というのが中ノ瀬が唯一出した条件だった。

 
 初回のアルバイトで、予定を開けた日曜日の昼間に初めて中ノ瀬のマンションを訪れた。
 電車を数駅経過した後、地図を片手に徒歩で5分ほど歩いた大きな公園にほど近い、少しだけ奥まった場所にあった。立地はこよなく良い。
 築年数は25年との事だが、改装の手も入っているからだろう、そうとは思えないくらい綺麗なものだ。
 入口の管理人室に声を掛けると話は聞いている、と鍵を渡されて、ゴミは共用のゴミ置き用の室に分けて入れておくのだと教えてくれた。
 上層の階の中ノ瀬の部屋は、2LDKという言葉に首を傾げたくなるようなものだった。部屋数は確かに2室だ。リビング、キッチン、ダイニングもある。が、どれもくまなく広かった。バブルの余韻が残る時代、若い富裕層に向け設計された部屋なのだろうと鳥貝は納得する。
 そこに生活の気配はほとんどなく、各所にうっすらと埃が掛かっている。
 さすがに、キッチンとリビングのテーブルあたりは人の気配は濃厚だった。ペットボトルや出来合の弁当の入れ物のようなゴミが一カ所にまとめて置かれていた。風呂も使った痕跡があるし、立ち入りを許された部屋は寝室らしく、上掛けが少々乱れたベッドにだけ人の気配が残る。
 汚れてはいるが、割合整然としている。
 鳥貝の知るあの男からは想像がつきにくいが、割ときちんとしているらしい。
 立ち入りを禁じられた部屋は・・・中ノ瀬の許しがあった。扉を開けて中を見るだけなら構わない、と。
 中は・・・物置に近かった。割合広い部屋だけれど、窓のない壁一面を書棚が占め、様々なジャンルの書籍が並んでいる。使われていないのか、いくつかのチェスト、スツール、文机等の家具が部屋の一角に固めて置かれていた。手前の壁には新しい金属製のラックがあって、そこにレターケースやファイルの類が並んでいる。
 全体的に埃をかぶってはいるが、頻繁に出入りするのか床には埃はない。
 書棚の空いた部分にいくつかの写真立てと小さな置物のような物があったけれど・・・遠目では分からなかった。真面目な鳥貝は、部屋の扉を開けて中を見るに留めていた。好奇心はなくはなかったけれど、好奇心を満足さるために人の事情に踏みこむ趣味はなく、ドアをそっと閉めた。
 何が中ノ瀬の触れられたくないものなのかは分からない。けれど、人にはそれぞれ隠しておきたい事情もあるのだろう。
 この日の鳥貝の仕事ぶりは、月曜日の朝、中ノ瀬から通知があった。すなわち、合格だ、と。
 3ヶ月分のアルバイト料の振り込みも今日中に済ませるとも云われ、鳥貝はほっとした。これで、教習所は一括払いで何とかなりそうだ。
 立ち入り禁止の部屋の事は、中ノ瀬から切り出した。
「・・・君は信用できる子だと思うから、あの部屋に入ってくれてもかまわないとは思ったんだけどな・・・入るわけないよな。」
「当たり前です。人の事情に踏みこむのは好きじゃないんです。」
「・・・まぁ、機会があればきみにもそのうち教える。ユキはあそこが何か、多分知っている。きちんと説明したわけじゃないが、ああいう子だからな。」
 少しだけ切ない声は普段のこの男らしくない。
 あの部屋は、きっと中ノ瀬にとって心の柔らかい部分に違いない。
「・・・中ノ瀬さんが話したくなったらどうぞ。わたしは、知らなくても大丈夫です。中ノ瀬さんと付き合うわけでもないんですから、」
 冗談含みの声で云うと、電話の向こうで低く笑い「そうだな、」と応えた。



つづく