※この二次創作小説についてとオリジナルキャラ紹介
>>こちら

[鳥貝大学3年の春のアナザーストーリー]

Memories〜春海【5】


 ターシャを連れて、百合子とふたり、浜に降りてきた。
 砂を踏む感触が鳥貝には新鮮だった。足下がおぼつかない。歩き方を考えないと、歩くそばから砂が靴にかかり、中に入ってきてしまう。
 百合子がターシャを横に従えてゆっくり歩き、鳥貝は少しだけ離れて後ろをつける。
「あのさ、」
 病院で出逢って以来、鳥貝は百合子とマトモに会話をした事がない。大抵、百合子が不機嫌だったり、自分が不機嫌だったりで、会話にならない。どちらが先に激昂するかにもよるけれど、大抵頭に血を上らせた鳥貝によって、百合子が会話を中断されるといった事を何度か繰り返していた。
 今、ふたりともが冷静な状態で、何を話そうというのか。鳥貝からは、話したい事は・・・ない。というより、何か云いたいのだけれど、何を云っていいか分からないのだ。
 百合子に声をかけられて、びくりとする。
 百合子が立ち止まったのに合わせて立ち止まる。
「おまえ、おれが恋人だったことは・・・認めてくれているんだよな?」
 振り返らずに問いかける言葉は、静かだ。感情の色は伺えない。
 だから、鳥貝も静かに「はい、」と応える。
「でも、感情は追いつてないんだよ、な?」
「理解はしました。でも、記憶は・・・感情を伴ったものが、欠落しているから・・・あなたの事は、」
 言葉尻を濁す。
 これまで何度か云ったようにはストレートに「嫌い」と云えない。
 実際・・・嫌いでは、ないから。
 これまでは、分からないから、不安だから、拒否するために「嫌い」だと口にしていたのだ。
「・・・うん。おれも、分かってはいるんだ。けど・・・ちょっと、しんどくなって・・・昨日からエスケープしてた。おまえの記憶を取り戻す努力から。・・・記憶、取り戻したいんだろう?」 
「それは、当たり前です。今が正常な状態じゃないのなら、元に戻さないと。」
 記憶を取り戻す事に関して、鳥貝が積極的な返事をした事は、百合子には嬉しい事だったらしい。やっと鳥貝を振り向いた。微笑んでいた。
「でも、おまえは、記憶が戻らないなら戻らないで、きっと前を向いて歩いて行くんだろうな、新しい目標を見つけて。それがこの数年とは違った道になっても。」 
 微笑みながら、後ろ向きなことを云う。
 自信過剰の自己中男に見えていたけれど、意外と脆い部分を持っているのかもしれないと、鳥貝は初めて思う。
「・・・おれは、夏目を失ってから、前を向いて歩けなかった。ずっと、長いこと。だから、いつも前を向いているおまえに出逢って、やっと前を・・・未来を見られるようになったんだ。」
 自分がそんな大それた人間だとは思えない。
 百合子との事に関する記憶は一切ないから、鳥貝は困惑するしかない。
「おれにとって、おまえは・・・全てだったよ。おまえも、おれを想ってくれていた、愛してくれていた。おまえと出逢ってから、おれはこの世の幸せを全部自分の手の中に掴んでいた。おれにとって、この世の幸せはおまえそのものだったんだ。」
 これらの言葉が真実彼の真意なのだとしたら、どれだけ重い気持ちなのだろう。
 今まで、人からそんなにも重い気持ちを預けられたことはないし、自分がそれを受け取れるとは思えない。
 戸惑うばかりの鳥貝に、百合子は淡く笑う。
「・・・でもな、それを今のおまえに押しつけるつもりはないんだ。おれは・・・いつかおまえがおれから離れていく日の事、想像しなかったわけじゃないから。おれに愛想つかして、おまえがおれの元を去っていく可能性は、高かったはずだから。・・・、・・・いや、違う・・・そういう事、云いたいわけじゃない。これはおれの心の問題だな。悪い。おれは、おまえに聞きたいんだ・・・、」
 百合子は真っ直ぐに鳥貝を見る。
 切れ長の目の中の少し色素の薄い光彩をした瞳が、綺麗だった。
 鳥貝は見とれてしまう。
「記憶を取り戻す気があるのなら、しばらくでいい、こっちにいてくれないか?」
 鳥貝が決めあぐねていた事をストレートに云われる。
 病院で目覚めて以来、帰りたい気持ちが先立っていた。でも、徐々にこっちに留まりたいと思い始める。そして、百合子のこの言葉が決定打になる。
 鳥貝は一度百合子の視線を避けるために顔を伏せて、意識が戻って数日の事柄を思い出し・・・再び顔を上げ、まだ真っ直ぐに自分を見る百合子の視線に合って、小さく頷いた。
 百合子はほっと笑う。
 細められた瞳の優しい笑顔。
 鳥貝もつられて微笑んだ。
「おまえの意識が戻ってから、おれ、おまえを怒らせてばかりいた。焦ってたんだ。・・・でも、もう焦らない。おまえが、生きて、どこかで元気にしているだけでもいいって思える。・・・けど、今少しだけ、おまえの記憶が戻るチャンスをもらいたい。」
 鳥貝は言葉なく百合子を見つめる。
「おまえに触れないと約束するから、おまえがこっちにいる間、おまえの側にいさせて欲しい。」
 鳥貝は逡巡する。
 彼への想いが定まらない。
 恋人だった事は事実としては認められた。
 けれど、出逢って以来この男には不快感ばかり味あわされる。彼に恋していた心は見つけられない。
 でも・・・嫌えない。むしろ・・・彼に惹かれてしまっている。
 余程戸惑った表情をしていたのだろう、百合子が自嘲気味に笑い、視線を逸らせた。
「・・・それなら・・・遠くから見てるだけなら構わないか?」
 彼の辛そうな様子に、鳥貝は胸を痛める。先日の夜の切ない表情が思い出され、鳥貝は胸を締め付けられるような気持ちになった。
 この人には、そんな表情をして欲しくないと思う。
 だから口を開いた。
「あの・・・、病院でしたみたいな事、しないなら構いません。・・・側というか、その、近寄りすぎなければ・・・いてもらっても、」
 今まで散々拒否をしてきたから、こういう事を自分から云うのは気まずくて、言葉が途切れがちになってしまう。
 彼を受け入れたわけではないけれど、彼の事をもっと知りたいとは思う。
 高慢で、自分勝手で、強引で、人を所有物扱いして・・・でも、意外と脆くて傷つきやすい男なのだと分かった。・・・それ以上の彼の事を、もっと知りたい。
 鳥貝の言葉を受け、百合子は笑った。とても、優しく。
 鳥貝はその笑顔に胸が疼くのを自覚して、大きく息を吸い込んで吐き出した。潮の香りが身体中を巡っている。この匂いを以前にも嗅いだことがあると思う。
「・・・帰ったら、両親に話しますね。多分、そんなに長期間はいられないと思うんですけど、」
「記憶、戻るよ、絶対に。」
 百合子は自信あり気に云う。根拠がどこにあるのか分からない。
 根拠はないかもしれないけれど、彼の言葉に記憶は戻る気がしてきた。戻そうと、強く思った。
 それから、ゆっくり歩き出した百合子の横にターシャが従い、鳥貝は彼の背中を見ながら歩いた。
 細身の男の背中だけれど、そこにあるしなやかな筋肉が動く様が容易に想像できた。何故かそれが手に馴染みのある感触に思われて、鳥貝は手を握りしめてその感触を消そうとした。でないと、認められない甘い気持ちが溢れ、流れ出しそうだったから。


 ほとんど言葉を交わすことなくふたりは百合子の家に向かい、そこで千早と雑談をしながら待っていた斎と鳥貝は寮に帰る事になった。鳥貝の百合子に対する不快感はもうほとんどなく、まだ素直に彼に接するには抵抗があるものの、それでも、微笑み合って百合子と別れた。明日、また会う約束をして。
 鳥貝の両親は割とあっさりと彼女が東京に残る事を了承した。父親はやや渋り気味だったけれど、母親が言いくるめた。 
 ただし期限は1週間。
 それが短いのか長いのかは分からない。
 でも、鳥貝は、百合子が自信満々に云ったように、自分の記憶がその期限内に戻るような、そんな予見をしていた。


 両親もいない、他に女性もいない、男性4人との共同生活(いや、現状を正確に云うならば5人だが)は、もう3日目となっていた。
 あの日海岸で云ったように、百合子は鳥貝の側についている。近づきすぎないよう、けれど離れる事なく。
 夜は寮の居間のソファで寝て、昼は講義、あるいは研究があるはずなのに、記憶を取り戻すためにあれこれ試みる鳥貝の側で、鳥貝の手助けをしてくれている。鳥貝がこの寮で生活している間に何があったかや、どんな所に行ったか等、百合子は的確に教えてくれた。
 鳥貝のバイト先や寮近隣の行動範囲にも案内してくれた。
 その間、百合子は約束したように、鳥貝には決して触れない。近づきすぎない程度の距離をいつも保つ。…そして、名前も、呼ばない。
 それが、少しだけ寂しい自分を鳥貝は自覚していた。
「これは、いつの、どこの写真でしょうか?」
 アルバムを捲る鳥貝が、目に付いた写真を百合子に指し示す。
 アルバムは何冊かあって、大半が建築物に関する写真で、鳥貝は我ながら、と感心してしまう。ただ、鳥貝の好きな現代建築の写真だけでなく、この寮の洋館のように古い建築物の写真も多々あって、20歳の自分が視野を広くして建築の勉強をしていたのだとくすぐったくも誇らしく思う。
 と、同時に、人物が写った写真の大半は、百合子と写っているものばかりで・・・自分がこの男と付き合っていたのを改めて理解する。
 鳥貝が指し示したのはふたりで写る写真。背景は海。どこかの港のようだ。服装は秋くらいのものだろうか。百合子の自分撮りだと分かるもので、百合子に肩を抱かれている鳥貝は、百合子の体を押しやりながらも楽しそうに笑っていた。
「去年の秋だな。学祭が終わった10月の最後の週末。場所はN港。ふたりが免許を取って初の長距離ドライブ。本当ならふたりきりで行きたかった所、おまえがおれたちの運転じゃ不安だから、って云って運転できるヤツを誘ったんだ。実際、おまえはほとんど運転してなかった。で、おれがハンドル握ると嫌な顔してた。途中ドライブインに立ち寄りまくって、N港の水族館に行って、昼は味噌煮込みうどんを食った。一緒に行ったのは、多飛本とリオ。多飛本は運転に慣れてるからな。Wデートだとリオは張り切っていた。・・・思い出さないか?」 
 百合子は少しだけ唇に笑みを乗せて話す。楽しい想い出だからに違いない。けれど、首を振る鳥貝を見て、笑みを苦笑に変える。
「これぐらいで思い出すなら、苦労しないか。うん、ゆっくり考えればいい。・・・他の写真の説明、してやろうか?」
「・・・あの・・・はい、お願いします、」
 百合子は優しい。
 初めて会ってからこっち持っていた嫌な印象は大分薄れた。
 それどころか・・・。
「・・・このアルバム、この秋からのだよな。こっちを先にしようぜ、1年の夏からの。残念なことに、それまでのアルバムはない。おまえがデジカメを譲り受けたのが1年の夏だったからな。おれは写真はケータイでくらいしか撮らない派だから、これはほぼ全部おまえのデジカメで撮った物。デジカメを譲り受けたのは、主に建築物を撮る目的だったみたいだけど、」
 少し冗談めかした口調で鳥貝に話しかける。
 細められた瞳が、穏やかな色を帯びている。
 横柄で、高飛車で、自分勝手で・・・でも、優しい。鳥貝を大切に想ってくれているのが、言葉ではなく態度で理解できてしまう。愛されている、と感じてしまう事すらある。
 手元の数冊のアルバムをぱらぱら開いて、目的のものを探す作業に没頭する百合子を見つめてしまう。
 N県の田舎では見たことがないくらいの整った顔立ちと、都会的に洗練された見目と、人目を引く所作と。
 こんな完璧な人と田舎娘にすぎない自分が付合っていた、なんて、理解はできても実感はできるわけがない。今でも、これは何かたちの悪い壮大な冗談なのかもしれないと疑ってしまう時もある。
 この人が、自分を選ぶ理由が見あたらない、と鳥貝は思う。
 K市の浜辺で彼が云っていた、鳥貝が百合子を救った云々も、その記憶がないから言葉通り信じられないからだ。
 ・・・例えば、自分が百合子に惹かれて恋する事があっても、彼から求められるなんて・・・。
「これだな、一年の夏からの。よく見たらアルバムにナンバーついてるじゃん。まぁ、おまえの事だから整理もちゃんとしてるよな、」
 鳥貝はぼんやりと百合子に見とれていた。
 好きとかそういう感情を抜きにして、見とれてしまうほど百合子には雰囲気がある。
 こんな人と自分が付き合っていたのか、と理解したはずの事さえ疑ってしまう。
「・・・、どうした?」
 はっとした鳥貝を見て、百合子は笑う。
「おれに見とれてた?」
 ずばり核心を突かれて、鳥貝はいたたまれない気持ちになる。
「見とれてません、」
 意地を張った嘘をつく。
 にやにや笑う百合子の表情が悔しくて、ぷいとそっぽを向く。
 百合子のくすくす笑う声が聞こえてきて、腹立たしいけれど・・・こういう遣り取りに心地よさを味わう。
「・・・、わたしは、」
 だから、疑問を口にする。
 疑問に思った事は、何でも聞いた方が記憶を取り戻す足がかりになると思うから。
「普段から、こうやってあなたと遣り取りしていたんですか?」
「そう。いつもこんな感じだったよ。・・・もっと、色々とヒートアップする事もしょっちゅう。大概おまえがおれの言動に怒って云い争う、って感じだな。・・・でも、それも心地良い関係だったんだ、」
 ふたりの云い争いが元で、自分が階段から足を踏み外した、と鳥貝は聞いている。原因はこの人にあるのだと。
 けれど、憎めない。憎めるわけがない。
 言葉を終え、百合子は鳥貝を見つめる。
 細められた瞳が、彼の気持ちを言葉なく語ってくる。
 この瞳に見つめられる度、胸が苦しくなる。
 ・・・鳥貝が愛しいと。大切なんだと、語っている。愛されていることを、否応なく実感してしまえる。
 今まで、こんな風に誰かに見つめられたことはない。
 きっと、鳥貝の記憶が戻ることを誰より望んでいるのは、百合子に違いない。
 この人のためにも・・・記憶を取り戻したいと、今は思う。
「・・・大学、行かなくていいんですか、」 
 彼からの眼差しがいたたまれず、関係のない事を問いかける。
「行かない。おまえの記憶が戻るまで、」
「・・・放って置いてもらっても大丈夫ですよ。16歳なんです。こどもじゃありません、」
「こどもじゃないから、心配なんだよ。田舎育ちのおまえが、都会の人間の悪辣な手に落ちないとも限らない。街でナンパされてそのままホテルに連れ込まれるとか、スカウトに舞い上がってAV出演させられるとか・・・、」
「・・・っ!」
 なんて事を云うんだろう。
 むっとして思わず手を出しそうになって、どうにか鳥貝は堪える。
 百合子はそんな鳥貝の様子を少しだけ意地の悪い笑顔で見ている。
 きっと、こういう遣り取りも普段通りなのだろう。 
 意地の悪い笑顔さえ、綺麗なのが悔しい。
 ・・・顔ばかり綺麗で、性格が悪い。そんな人を自分が好きだったなんてあり得ない、と鳥貝は思う・・・思い込もうとする。だって、今の彼女はNに恋している・・・はずだから。
 優しくて明るくて気遣いのできるNの事が鳥貝は好きだ・・・と、頭の中で必死に決定づけようとする。
 必死にならなければいけない程・・・鳥貝は、百合子に惹かれそうになっているのを自覚していたから・・・。
「そこまで無警戒じゃありません、馬鹿にしないでくださいっ!」
「どうだろうなぁ。だって、おまえの記憶にはない事だけどさ、初対面でおれに簡単にキスされたじゃん。17の時でもそれだったんだ。どんだけ警戒心ないんだよ。」
「・・・、・・・そっ、そんなの、」
 記憶を無くす前の事だ、と言い訳できない。
 記憶を戻す足がかりに、百合子との馴れ初めの話もされた。
 初対面、この寮で出逢ったふたりは、百合子の単純な言葉遊びに簡単に騙されて、キスをされた・・・それを抵抗することなく受け入れた、と。
 それはこの男の虚言かと思ったが、そうではない事は他の男達からも裏付けされた。
 そういえば、病院でもいきなりキスをされた。あの時も、キスのあまりの心地よさに、結局それを受け入れてしまった。
 鳥貝はそう思ってしまう自分を戒めながら思う。・・・この男に迫られて、あんなキスをされれば、誰だってキスの虜になってしまうに違いない、と。
「・・・あっ、あなたは、」 
 鳥貝の心の内を見透かすように、にやにや笑う百合子に、体裁が悪くなって、鳥貝はわざとはぐらかす事を口にする。
「誰にでも、突然あんなキスをするんですか?」
 鳥貝のはぐらかしに突っ込む事なく、百合子は笑って応える。
「おまえが可愛すぎるから、したくなったんだ。きっと、おまえだからだよ。」
 真顔で、一切の照れなく云いきる。
 逆に、鳥貝の方が赤くならずにいられない。
 胸が、痛い。
 この感情をどうやって整理したらいいのか分からず、唇を噛んだ。
 今の自分は確かにNの事が好きな・・・はずだ。
 なのに、抗いがたい力でもあるかのように、この男に惹かれてしまう。
 実際の20歳の自分が彼と付き合っていたにしても、その記憶を持たない自分が、彼と付き合えるはずがないと、堅い鳥貝は思うからこそ、惹かれる気持ちを自制するけれど・・・それが、どうしても難しい。
 ・・・だから、20歳の自分を、羨んでしまう。
 20歳の自分は、きっともっと素直に彼への気持ちを表現していたに違いない。そして、彼もそんな自分を好きでいてくれたのだ。
 そんな20歳の自分は・・・幸せ、だったに違いない。
 キスをして、甘い言葉を何度も囁かれて、あの長い腕に抱きしめられて彼の熱を感じて、きっともっとそれ以上の事も・・・。
 想像しそうになって、慌てて思考を中断した。
 Nとだってキスまでしかしていない。
 馬鹿な事を想像してしまって、後に残ったのはひどい胸の痛み。
 認めたくはないけれど、これは・・・羨んでいるだけではない。もっと別の感情だ。
 20歳の自分に・・・嫉妬、しているのかもしれない。
 今の自分ではあり得ない事を、彼としていた自分に対しての嫉妬かも知れない。
「・・・キス、したい、」
 切なげ・・・そして、愛しさを含んだ眼差しで見つめられ、甘いと表現できるような口調で求められる。
 胸が、踊る。頭に血が上る。
 百合子の手が自分に向けて伸ばされて、思わず目を閉じ体を堅くしてしまう。
「・・・できるわけ、ないよな。悪い・・・、」
 自嘲に満ちた声に目を開けると、百合子は頭を抱えて俯いていた。唇には苦笑が浮かぶ。
 最愛の恋人を目の前にしているはずなのに、彼女はその記憶を持たない。自分ばかりが恋い焦がれている、そのもどかしさ、やるせなさ。
 記憶を無くした本人である鳥貝以上に、百合子の方がこの事態に憔悴していっている。
 ・・・だから、この人のために記憶を取り戻したいと、鳥貝は強く思う。百合子に20歳の自分を返してあげたい。
 自分自身を羨んで、嫉妬して・・・どんなに理性で押しとどめようとしても、感情が主張する。この人に惹かれる想いには、あらがえそうもない。
 今、16歳の自分も、この男に・・・恋してしまいそうだった。



つづく