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[鳥貝大学3年の春のアナザーストーリー]

Memories〜春海【3】


 翌朝も鳥貝の記憶は戻っておらず、その場にいない百合子を除いた男達は肩を落とした。
 そして、朝一番、朝食前の早い時間に現れたのは月成と斎だった。早朝、鳥貝の目覚める頃を見計らって斎の車で来たのだという。
 鳥貝は初対面の美女ふたりの迫力に戸惑いながらも、感じの良い彼女たちからの好意を素直に受け取った。つまり、お見舞いの果物とかお菓子とか、花束とか。連絡を受けた昨晩遅くからこの早朝にかけて、空いているお店はコンビニか飲み屋、あるいは市場くらいなのに、それらをどこで手に入れたのかは・・・彼女たちのコネクション力による。
 彼女たちが話す、自分と彼女たちの記憶には必ず百合子という男が絡んでいて・・・百合子に対して不快な感情を持つ鳥貝は、そこに眉を寄せた。
「別にユキの事なんて思い出す必要ないわよ。春海ちゃんにとっては、その方が幸せなのかもよ。あいつと付き合い続けてたら、きっと心労で参っちゃう。」
「思い出せないなら仕方はないさ。あの男を知らなくても、きみは人生を歩んでいける。というか、新しい人生の門出かもしれんぞ?」
 女性ふたりもあの百合子という男を嫌っている様子なのが分かって、鳥貝はほっとすると同時に・・・胸も痛かった。
「ユキのやつ、ざまーないわ。春海ちゃんに忘れられて惨めな顔をしているのを見てやろうと思ったのに、早速現実逃避? 意外と小心者よね!」
「このままふたりが別れてくれたらわたしとしては嬉しいんだが。鳶になって彼女をさらっていってもいい。」
 病室から出ての帰り際、待合室にいる男達に向けての言葉である。
 男達は、彼女たちの迫力に言葉なく溜息をつくばかりだ。
 多飛本が僅かに、
「さすがの百合子もかなりきてるから、あまり突き回してくれるなよ。」 
 云った言葉に、月成は鼻を鳴らした。
「わたしたちだってね、ホントは春海ちゃんに記憶を取り戻して欲しいわよ。だって、いろいろなこと・・・夏目くんの事も忘れられているの、ツライもの! ・・・話していないんでしょう、まだ?」
 話して、いなかった。余計に混乱させそうだから。
 両親が到着して彼女の気持ちが落ち着いてから、両親と一緒に説明するつもりだった。
 多飛本の言葉に、月成は眉根を寄せて「また会いに来るわ、」と、斎と共に帰って行った。
 それからすぐに鳥貝の両親が急ぎ足でやってきた。百合子も一緒だった。
 百合子は少しばかり寝不足気味の顔色をしていたけれど、鳥貝の両親を不安にさせない為か、穏やかな表情を取り繕っていた。
 多飛本が両親に簡単に昨日の診察結果、これから再検査予定である事、と今の鳥貝の状況を伝えると、両親だけで病室に入り、半時ほど経った後、看護師が診察の為に呼びに来て、鳥貝は両親と共に診察に向かった。
 向かう際、鳥貝は待合室にいる百合子を目にして、少しだけ表情を難しくしたけれど・・・すぐに視線を逸らせた。
 百合子は・・・唇を噛んで強く瞼を閉ざした。


 検査には時間を要しているようだ。
 鳥貝が戻ってくるまで一時間以上かかった。
 男達は時間に融通の利く多飛本と百合子だけを残して、それぞれ鳥貝を気にかけながらも大学に向かった。
「・・・鳥貝、実家に帰ることになるだろうな。」
 多飛本がぽつりと呟く声に、百合子は溜息で応える。
 それは、昨夜から何度も考えたこと。
「記憶、戻ればいいが、戻らなければ・・・、」
 多飛本も溜息をつく。
「しばらくは休学でもいいが、長引くようなら、寮も引き払って、せっかく入学したTK大も中退だろうか。2年までの学んだの記憶がないのに、3年に在籍してもついていけまい。地元に帰って、療養・・・となるだろうな。」
 多飛本の言葉は至極現実的だ。
 分かっていた事を、改めて人の口から言葉として出されると、暗い気持ちに拍車がかかる。
 百合子は、頭を抱えた。
 昨晩、一睡も出来なかった。
 とりとめなく、鳥貝の事を考えていた。
 彼女を、愛している。かけがえなく思っている。
 だから、記憶を失い、自分を拒否するようになってしまった彼女に、激しいショックを受けた。
 近いうちに戻ればいい。
 でも、戻らなければ?
 戻らなくても・・・それでも、彼女の側にいたいと思った。今の彼女の記憶に自分はいなくても、これからそこに自分の場所を作ればいいと。出会った時のように、彼女に自分を刻み込めればいい、と。
 昨晩、一睡もせず、考え抜いてやっと出た前向きな結論はそれだった。
「・・・気持ちは分かるが、無茶するなよ?」 
 百合子の考えなどお見通しの多飛本ばぽつりと云う。
「・・・無茶、する。」
「ばか。マジで嫌われるぞ?」
「・・・。・・・やっと色恋ごとのスキルが上がってきていたのに、また振り出しだ。16のあいつはきっともっと鈍いから、無茶くらい、しないと。」 
 出会った頃、彼女に無理にキスしたり夜這いをかけたり、いじめたり、泣かせたり。
 自分の存在を知らしめるために、好きな子いじめに手を出していた百合子を思い出し、多飛本は小さく息を吐いた。
「今度も上手くいくとは限らんぞ。・・・あの子の心の中には今、Nという恋人がいるしな。」
「・・・分かってる。けど、おれを好きにさせてみせる。あいつの性格は、もうおれの方が良く知ってるから、」
 落ち込んでいながらも、ちゃんと前は向いているらしい。夏目が死んだ後の百合子とは違う。
「・・・鳥貝は、生きて、今現在目の前にいるのだしな、」
 多飛本の呟きに、百合子はやっと笑った。


「体にも頭にも異常はないけれど、心配なのであと2日、入院させてもらうようお願いしてきました。」
 検査が終わった後、病院に残っていた百合子と多飛本が鳥貝の病室に呼ばれて、両親と鳥貝と話をする事になった。
「春海、それでさっきも云ったけれど、地元に帰っていいんだね?」
「・・・うん。荷物とか寮?にあるんでしょうけど、退院したら寮に寄って、必要そうな物だけ持って帰るね。しばらく家にいてから、その後どうするか決めようと思う。」
「記憶を戻す事が大事だから、退院したら一日だけ寮にお世話になって、大学とか日常生活とか、これまで通りの体験をさせてみようかと思うんです。・・・いいでしょうか?」
 母親が多飛本を見て云うのに、多飛本は頷く。
「勿論です。鳥貝さんは寮の住人なんですから。」
 本当なら、記憶を取り戻すためには失った記憶の2年分が存在する寮・大学の生活をしばらく体験させる事こそが良いのだろうが、こうも早急に実家に帰る事に決まったのは、鳥貝自身がそう望んだからだろうと思われる。
 見知らぬ街で、見知らぬ男達と寮暮らしなんて、16歳の彼女には不安な事に他ならない。
「百合子くんも、しばらく頼む。きみと春海との事は・・・、」
 父親が言い辛そうにする。
 言葉にしなくても、云いたいことは分かる。
 鳥貝の両親は百合子を気に入っているし、何度も実家に遊びに来ている彼が将来娘の伴侶になる事も現実として考えていた。
「分かっています。春海が思い出すまで、過度の刺激はしません。・・・でも、おれは彼女の記憶が戻ると確信しているから、N県に帰っても、時々会いに行きます。」
 両親はほっとした表情をする。
 対照的に、鳥貝は顔をしかめた。
 先ほど両親と3人で話していた時も、百合子の名前が何度も出てきた。両親がこのいけ好かない男を自分の恋人として認め、大層気に入っているらしい事が不快だった。けれど、両親に盾突く気もないので、鳥貝は不機嫌な顔のまま押し黙っていた。
  

 それから・・・鳥貝が退院する2日後に両親はまた来ると約束し、百合子と多飛本、他の寮生達にも「迷惑をかけますが、よろしくお願いします」と丁寧に挨拶をして、一旦N県へと帰った。
 鳥貝自身は打ち身の他は至って元気で、身の回りの事は全て自分でできるから、そこについては両親は心配していなかった。
 大学への連絡も済ませた。無期限の休学だ。
 そして、その2日間に鳥貝がどうやってすごしたかと云えば・・・。


 今の彼女にとっての知らない土地、そこでの生活が不安であるのは当然だ。が、ひっきりなしに誰かが病院に訪れる事となり、不安を感じる暇もなかった。
 寮の男達が入れ替わりにマメに来てくれたのももちろん、大学の友人・知人、アルバイト先の人間・・・中でも鳥貝が一番喜んだのは、Nが連絡したという、東京かその近郊に進学した地元の友人達。
 また、百合子の両親と、妹も見舞いに来てくれた事には、鳥貝も驚いた。自分が百合子の家に頻繁に顔を出し、その家族にも気に入られていたのだ、と実感するのは変な気持ちだった。百合子自身は相変わらず気に入らないけれど、彼の家族には好意を持った。百合子とどこか似ているけれど、快活でさっぱりした気質の妹の千早が真剣に心配してくれる様子は、本当に嬉しかった。
 そうして多種多様な来客が訪れた病室で、鳥貝が最も意識を惹かれた来客は、入院一日目の夜に寮の男達と一緒にやってきた女性。
 柔らかな雰囲気の、綺麗というよりかわいらしい女性だ。30代の半ばくらいだろうか。
「春海ちゃん?」 
 記憶はないはずなのに、呼びかけられた声が、何故か懐かしいと、思ってしまう。
 戸惑った表情をしていたのだろう。女性は困ったように微笑んだ。
「ホントに忘れちゃってるみたいね。・・・そっか・・・、寂しいな、」 
 申し訳ない気持ちになる・・・けれど、やはり思い出せない。
 女性だけを鳥貝のそばの椅子に座らせて、集まった男達はそれぞれに壁や窓に寄りかかり、多飛本が口を開く。
「彼女は坂井美羽子さんだ。きみにとっては重要な存在だけれど・・・、思い出せないよな。」
 鳥貝は多飛本の事は割と信頼している。同様に白熊に関してもそうだ。けれど、軽い感じのする時屋と、綺麗すぎる安羅には気後れしていたし・・・百合子は相変わらず気にくわない。
「きみの両親から話す許可はもらっているから・・・話さて貰う。」 
 鳥貝の両親まで出しての多飛本の改まった言葉に、鳥貝は緊張する。他の男達も皆真剣な表情をしている。
「きみは、自分が鳥貝夫妻の養子だと、知っているんだね?」
 両親の許可がいる話・・・それは、もしかすると自分の出生の事だろうか。
 高校入学の時に知った。けれど、深く考えることはなかった。何故深く考えなかったか。・・・今の生活に不満がないからだ。そして、知ることで自分の何かが変わってしまうのが怖かったから。
 鳥貝は不安な心持ちでかすかに首を縦に振った。
「20歳のきみは自分の出生を知っていた。だから、きみにも話す。・・・彼女は、きみの実のお母さんだ。」
「・・・っ!」
 途中から、予感はしていた。どことなく、自分に似ている気もする女性。もしかしたらそうかもしれないと。
 それから、鳥貝がどうして、どうやって養子に行くかの話がなされ、その中で出てきた兄「夏目」の存在を不思議に思っているうちに、話は18歳の頃の鳥貝のものに移った。
 そこで、美羽子が少しだけ重く口を開く。
 兄夏目が、TK大在学中に難病にかかって亡くなったことを。
「結局、あなたには会わせてあげられなかったの。でも・・・一度だけ、家族4人が揃った事があるのよ。すごく昔のことなんだけどね。記憶を無くす前のあなたもかすかに覚えていると云っていたわ。ねぇ、覚えてはいないかしら? 小さい頃、海を見に行く冒険に出たあなたが体験した事、」
 覚えている・・・というよりも、あれは夢だと思っていた。
 海を見るために冒険に出た自分の相棒は、見知らぬ男。何度も電車を乗り継ぎ、薄暗い海に出会ったこと。目覚めたそこにいた自分より年上の少年のこと。甘酸っぱいアプリコットタルトのこと。白いひつじが現れる手品のこと。
 白くふわふわした優しい夢だと思っていた。
 あれが真実の記憶だったのだと実感は持てない。
 けれど、知らず、涙がこぼれた。頬を伝う感触を手でぬぐった。
「・・・夢だと、思っていました・・・、でも、」
 今の鳥貝に兄がいたという記憶も実感もないのに、ひどく胸が痛く・・・でも、どこか暖かい気持ちにもなるのが不思議だ。
 戸惑いや、不安や、嫌な気持ちはない。
「・・・思い出すと、不思議と、幸せになります、」 
 鳥貝が初めて寮に来て、男達と知り合い、兄を知った後にしばらく感じていた不安や戸惑いは、今の鳥貝にはない。それは、無くした記憶の間に、彼女が培った亡き兄に対する優しい想いが彼女の中にきちんと存在しているからに他ならない。
 美羽子が鳥貝の頭を撫でて優しく笑った。
「もちろん記憶は取り戻して欲しいけれど・・・わたしは春海ちゃんが元気でいてくれるだけで嬉しいから。」
「・・・はい、」
 収まらない涙を持てあましながら、鳥貝は頷く。
 鳥貝は今、自分は実の兄の親友であるこの男たちと暮らしていたのだと、すんなり納得できた。
 百合子のことも・・・、受け入れたくはないけれど、恋人関係にあったのだということは、認めなければならないとは思った。
 壁にもたれている百合子を見る。視線が合ったのを、鳥貝は慌てて逸らして美羽子に向き直る。
「あなたの事、わたしはどう呼んでいましたか?」 
「美羽子さん、だったわよ。もう母ではないんだから、その呼び方が一番しっくりくるわね。」
「じゃあ、美羽子さん・・・、また色々お話聞かせて下さい。記憶、戻るかも知れないから、」
「もちろんよ。」
 美羽子も鳥貝も穏やかに笑い、こんな笑顔がこのふたりはやはり似ているのだと、男達は改めて微笑ましく思った。

   
 そして、鳥貝が入院している2日の間、彼女に警戒されまくっている百合子がどうしていたかといえば。
 寮の鳥貝の部屋で寝起きしていた。本人曰く、ミス・ノーラの世話のためだというが・・・恋人である20歳の鳥貝との想い出に浸るためであったのは、男達の想像する所。
 病院には勿論通っている。というより、ほぼ入り浸っている。
 ひっきりなしに訪れる鳥貝の見舞客が自分の知人の類であればしばらく会話し、そうでなければじっくりと見分した。
 鳥貝そのものには・・・あまり近づけていない。鳥貝があからさまな拒否反応を示すからだ。
 だから、まともに会話できていない。
 それでさえひどく歯がゆいのに、更に輪を掛けて苛つくのは、Nの存在。
 一日目の昼にNはこちらにいる郷里の友人たちを連れてきた後もずっと鳥貝のそばにいた。彼女がそう望んだからでもあり、N本人曰く「まだ彼女の事、好きですから」の下心もあり。
 百合子とも何となく会話をしている。
 Nはあまり物怖じしない、明瞭な口調で話すいかにもな優等生タイプだ。同時に、割と強かでもある。
 百合子もそういう男は嫌いではない。けれど、鳥貝を間に挟んでいるのだから、どうしても好意的にはなれない。
「彼女が郷里に帰ったら、ぼくの方が有利ですよねぇ、」 
 鳥貝の元に大学の友人が来ている時、待合室の同じ長いすに、百合子から少し離れて座っていかにもわざとらしく呟く。
「・・・はぁ!?」
 威嚇するように問い返しても、Nは動じず笑う。
「郷里には状況してからのこの2年と少しの記憶なんてほとんどないでしょう? だから、記憶も戻りにくいんじゃないかなぁ、と。で、今の彼女はぼくに恋してくれている。休みごとに彼女の所に会いに行けば、彼女はどれだけぼくを歓待してくれるのだろうな、とか。記憶がもどらないまま郷里で生活するようになれば、ぼくこそが彼女の側にいるのに適当な相手なんじゃないかな、とか。」
 半ば百合子をからかう口調でさえある。
 けれど、それは実際に「鳥貝の記憶が戻らなければ」の場合にかなり高い可能性で起こりうる内容。
「五月蠅いよ。あいつの記憶は戻るから、絶対。おれは絶対にあいつを手放さない。」 
「今の春海ちゃんは、束縛されるのが嫌いだと思いますよ。記憶が戻る前に、完全に嫌われないといいですけど、」
「・・・、あいつの記憶が戻ったら、期待した分おまえが吠え面をかくんだ。」 
「・・・さて、どうなるでしょうね、」
 Nは百合子より優位にある立場で、笑った。
 百合子はむかつきながら口を閉ざした。
 そして夜。
 美羽子がやってきて、帰った後の事だ。
 一旦帰っていたNが消灯時間の少し前に、病院にやってきた。鳥貝におやすみの挨拶をするのだと。
 美羽子を見送った後、鳥貝と会話できる機会と見てひとりで病院に残っていた百合子が鼻白んだ。ちなみに、ふたりきりでの話し合いは、やはり鳥貝に拒否された。普段であれば多少無茶な事をしてでも話し合いに応じさせる百合子だけれど、今の鳥貝相手では無理そうだ。心から嫌われ兼ねない。美羽子の登場によって、「恋人だった事実」は受け入れてくれているようなのに。
「またおまえか・・・、」
「百合子さんこそ、まだいたんですか? 彼女、嫌がってるでしょうに、」
 直球で嫌みを切り込んでくるのは、むしろ清々しい。
 百合子はNを睨み付けるだけ睨み付けて、黙りを通した。
 帰るのは、Nが出てくるまで待っていようかと待機していたのだが、やけに遅い。
 鳥貝は今Nに恋している。
 その事実が思考の中を往復して、居ても立ってもいられなくなり、不調法だとは理解しつつ、病室の扉を開けて目にしたくないものを目にする事になる。

 
 さて、百合子が扉を開ける前に、鳥貝とNに何があったかといえば。
 恋する相手の来訪に、ベッドに腰掛けて本を読んでいた鳥貝はご機嫌に笑う。
「少し前まで、寮の人達と懐かしい人が来てくれたの。やっぱり、記憶、思い出したいな、」
 Nだって、記憶がない状態が正常とは思えないから、苦笑いする。
「思い出した方がいいんだろうね。でもね・・・そうすると、きみはもうぼくの恋人ではなくなってしまう、」
「・・・、・・・、」
 Nの言葉をうけ、鳥貝は何か言い掛け、不快そうな表情になってから唇を閉ざし、息を吐く。
「それは・・・、嫌だな。だって・・・あの人、恋人だったなんて実感ないもの。話をしようにも、なんかすぐにムキになってくるし、わたしもつい苛立っちゃうから・・・嫌。そういう風に感情乱したくないのに。」
 16歳の鳥貝は、自分の感情を表立って表現することを苦手とした。感情的になるのが美徳とは思われなかったのだ。他の人間はともかく、自分がそうなることには、嫌悪を感じていた。
 百合子と出会ってからだ、鳥貝が素直に喜怒哀楽を示すようになったのは。本来、この年頃の女の子であればそれこそが特権で美徳。だから、百合子と出会ってからの彼女は美しくなった。
 Nはそれを思って苦笑する。
 記憶を失っても、百合子に対する喜怒哀楽の表現が生きている。・・・本人に一切の自覚がないままに。
 そもそも、Nの恋人だった頃の彼女は、誰か他人をあからさまに嫌ったり苦手視したりすることはなかった。
 結局、彼女にとって百合子が特別な存在だという事には変わりがない。
「記憶が戻っても、ぼくの恋人でいて欲しい・・・と、約束をとりつけたい所だけどね、生真面目なきみを無駄に束縛してしまいそうだから、やめとく。」
 鳥貝は戸惑った表情の後、悲しげに眉根を寄せた。
 そんな表情、付き合っていた頃にはほとんど見た覚えがない。
「・・・わたしは、約束したって・・・、」
「だめ。だって、きみ、どれだけ百合子さんと愛し合っていたかも覚えていないんだから。」 
「・・・愛し合うって、」
 二重の意味を含めて云った。
 恋心も、体も・・・鳥貝は全てを百合子と委ね合っていた。
 鈍い鳥貝はその意味を理解しないまでも、何となく察したらしく、渋面をひどくした。
 そして、Nの腕を引き寄せて、キスをした。
 一度目は触れるだけのそれだった。
 唇を離して、驚くNに微笑み掛け、今度は顔を傾げると、深く唇を重ねてきた。
 付き合っている間、何度もキスはした。それが恋人としてのふたりのコミュニケーションだった。もちろん、エスカレートしたそれも何度も経験している。それ以上には至らなかったけれど。
 けれど・・・今の鳥貝のそれは・・・。
 あり得ないくらい、すごかった。
 思い出に残る、甘くて優しい、幸せになるキスではない。甘く絡みつくような、官能的なそれだ。
「Nくん・・・、」 
 はぁ、と吐息と共に耳元で囁かれる声も、甘い。鳥貝のそんな声は初めて聞く。ぞくりとする。
「・・・もっと、して?」
 淫らな響きを持つ誘惑の声。16歳の鳥貝にはあり得ない誘い。
 ふたりの関係はキス止まりだった。男のNとしては、それ以上の関係を何度か望んだけれど、いつも鳥貝に拒否された。あの当時はそれでも良かった。彼女を大切にしたいと、彼女に嫌われたくないと思っていた。
 仮面浪人をしていた頃、付き合っていた彼女とは割と簡単にそれ以上の関係になった。あの頃もそれなりに幸せだった。
 けれど、鳥貝とだったら・・・鳥貝を抱いたら、どんなにか幸せになれるだろうか。
 百合子がすぐそこにいるのに、理性はあっというまにぐらついてくる。
 自分の腕の中で潤んだ瞳で見つめてくる鳥貝に応えたいと簡単に反応してしまう。
 だから、今度は自分からキスを求めた。
 高校生の頃、求めていながらも叶わなかったことが、今目前にある。
「春海ちゃん・・・、」 
 柔らかい鳥貝の体を抱きしめる。
 それだけで、自分の体の熱が跳ね上がるのを感じる。
 彼女の胸がふたりの体の間で押しつぶされる。付き合っていた頃に触れたことくらいはあったけれど、今、その胸のさわり心地を想像しながら、彼女をベッドの上に横たえる。
 唇を離して上から彼女を見る。
 彼女は、なぜか少しだけ戸惑った表情をしていた。
 けれど構う事なく、彼女の胸に触れて見た目より大きくさわり心地の良いその感触に酔う。
「Nくん・・・、」
 震える声は戸惑いからだろうか。
「春海ちゃん・・・、」 
 吐息と共に囁いて、彼女に再び口づけようとして・・・邪魔者が現れた。



つづく