| はじまり |
その日は、いやにいい天気だった。 いや、雨上がりの翌日と言うのは、大概そんなものなのかもしれない。 分厚い雨雲に覆われた空を一日眺めていたから、その後の陽射眩い青空がより眩く美しく見えるだろう。 だが、翌日が雨だった分、私は……琥珀川は、増水し、場所によっては逆巻く水の流れがあった。 真夏日の晴天、水遊びをするために水場に遊びにやってきた何組かの人間の家族連れも、荒ぶる私の様子を見て、水遊びは取りやめ、時折名残惜しそうに私を見ながら、結局は川岸で遊んでいる。 私は、そんな人間達を穏やかに眺めていた。 決して人に姿を見せない。 それは、自然に宿る魂……人間によれば"神"とでもいうべき私達の、暗黙の掟。 私達と、人間とは存在する次元だけでなく、存在の意味そのものがまったく違う。 かつて、ごく近くに位置し時折は互いの訪れもあったという旧世代から、いつしかまったく関わりを持つことさえなくなった現代……今、人でない、また、人の知る生き物でない私達の存在は、人に恐怖を与えるだけ。 私達は、ただ、自然に在るだけの存在。 人に関わる事はできない。 けれど……。 小さな、少女がじっと私を見詰めている。 ふくふくとした柔らかそうで健康的な桃色の頬をした、ちょっと華奢な少女。 最初は両親と共に、川岸でボール遊びをしていたのだ。 けれど、両親が他の家族と話し込み出して、暇を持て余したらしい少女は、じっと私を見つめ私に近寄ってきた。 まだ新品の靴は、少女の成長を考えたのか、少し大きめ。少女が歩くたびに、かぱかぱと音を立てて、少女の足から離れる。 「すごいおみじゅ」 おっかなびっくりで覗きこんで、足を一歩踏み出した、途端……足もとの空き缶で見事に気躓いた。 まだ、彼女自身は、毛躓くだけですんだのだが、大きめの靴は、彼女の足を離れ、緩い坂で転がって……私の中に落ちてきた。 「あっ……!!」 最初は私の端、流れの緩い位置でぷかぷかと浮いていた靴は、徐々に私の中央程……流れの強い位置まで運ばれようとしていた。 「くつ……!!」 少女は、慌てて私に近づく。 まだ、手の届く位置にあるから、取れるとでも思ったのか、川岸から手を伸ばす。 けれど、届かない。 「んっ……!」 一生懸命手を伸ばし、身体も乗り出して来て……。 「あっ!?」 少女が、私の中に落ちてきた。 ぼしゃん、と、激しい音がする。 少女の落ちた際の水のたわみで、靴はもう激しい川の流れに飲み込まれるように流れて行った。 大人達が、慌てて振り向いて、悲鳴を上げる。 「千尋!? 千尋っ!!!!!」 両親のふたりが、顔を青くして、駆け寄ってくる。 ――この子の名前は、千尋。 川は生命を育む。 けれど、命を奪う事もままある。 小さな虫から……あるいは人間まで。 私も、これまで多くの命を奪ってきた。 けれど、私は……私達は、それらの生き物の運命をただ、見守るだけ。 手出しはできない。 私達は、自然に在るだけの存在。 私は、私の中で必死にもがく小さな少女を抱いて、遣る瀬無い想いに捕らわれた。 少女は、助かるのだろうか? いや、この急流に飲み込まれては、助からない。 まだ、こんなに幼い少女なのに。 「千尋ぉ!!」 父親が、浅瀬まで入り込んできて、必死で少女の行方を探している。 けれど、少女はもう父親のいる位置より随分下流まで流されていた。 水を飲み込んで流されている少女。 私達は、人間に関わっては、ならない。 人前に姿を現わせてはならない。 こんな、幼い少女の命さえ、見捨てなければならないのか……。 私は、たまらなくなった。 そう思ったら、咄嗟に体が動いていた。 人間に関われる体に変化して、少女をその背に救い上げる。 少女は必死に私の角にしがみついて、目をぱちくりさせた。 そう、私の傍にいれば、水の中でも呼吸できるし、視界も効く。 小さな、小さな少女。 人目につかない浅瀬に、私は少女を運ぶ。 こんな幼子の言う事など大人は信じはしないだろう。 なにより、幼子の記憶は成長するたびに消えて行く。 「……あり、がと……」 少女は、私の姿に怯える事無く……けれど、川に落ちたショックが抜けきっていない青い顔で私にそう言った。 人に、感謝の言葉を受けるのは、それが初めてだったのかもしれない。 私は、その人の少女がどうしようもなく愛おしく感じられた。 けれど……私と出会ったという記憶は、残してはおけない。人と私達が関わってはいけないから。 記憶を消し去る事は難しいが、まだほとんど色づいていない、少女の記憶を封じる事は簡単だ。 私が軽く呼吸を吐き出すと、少女は崩れるようにその場に倒れ伏した。 ――大丈夫、両親はすぐにやってきて、そなたを見付けるだろう。小さな千尋……人でない私の事を思い出してはいけないよ。 人の気配はすぐ傍に。 私はすぐに、私に帰った。 少女は父親に抱きかかえられ、母親や集まって来ていた人間達に囲まれて、すぐに姿を消した。 私は、私の奥深くで、そっと少女の名前を呟いた。 ――千尋……。 川底に落ちてきた少女の靴を、私はそっと抱きしめてみた。 関わってはいけない、人間と私達。 きっと、二度と会う事はない人間の幼子。 それでも……私の記憶に、少女は鮮やかに焼き付いてしまった。 ――千尋。 初めて関わった、幼い人間。 私が封じた記憶は、余程の事がない限り戻らないだろうし、いつか思い出す事があったとしても、人間は、あり得ない事は全て幼い頃の夢だと思える生き物だ。 大丈夫。少女は、私を思い出しはしない。 けれど……きっと、私は少女を忘れる事はないだろう。 そう、たとえ己の事を忘れようとも……。 〜幕〜 ホントは、まったく別な話にする予定でした。 ええ、通例のバカ話に。でも、指が滑って、こんなマトモな話に。 もしかすると、ここから話が続くかも……続かないかも。 何しろ、見切り発車な人間ですらね〜(苦笑)。 |